夏の風のように

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 晴れ渡る夏空の下、茅野亜久里(かやの あぐり)は自転車を漕いでいた。メイクもしていない顔に汗が伝い、顎からポタポタと落ちてはアスファルトに消えていく。同級生達はそろそろ化粧っ気が出てくる頃で、親友の和栗亜美(わぐり あみ)曰く「日焼け止めも塗らないで外に出るとかありえない」と言われ続けている亜久里だが、馬耳東風と言わんばかりに今日も夏の坂道を必死に上っていた。  オレンジのTシャツが汗で肌に引っ付くのも気にせず、亜久里は坂道を上り切ると、山々を見下ろす一軒の民家前に自転車を停めた。ジーンズのショートパンツも、黒のセミロングも、汗でびしょ濡れである。本日の気温は摂氏三十五度、これでも涼しい方だ、と亜久里は思いながら、前カゴの荷物を手に取って民家のチャイムを鳴らした。 「なつみおばあちゃん、おはよう」  亜久里を出迎えたのは、いかにも優しげな田舎のおばあちゃん、という感じの城長夏海(しろなが なつみ)だった。よく見ると表玄関には「城長」と書かれている。この家の主であった。 「おやおや、よく来たね亜久里ちゃん。さぁ、お上がりよ」 「ううん、お母さんに言われて梨のおすそ分けに来ただけだから、いいよ。すぐ帰るからさ」 「えー?じゃあ、ワシが寂しいから、一緒にお茶しておくれよ。水ようかんもあるよ」  夏海が懇願するように眉尻を下げると、亜久里はくすりと笑って応える。 「しょうがないなぁ。じゃあ、1時間だけ、お邪魔しようかな」  そういうと、二人はどちらともなく吹き出して笑った。亜久里が遠慮して、夏海が誘う。本心では上がりたい亜久里が、それを承諾する。いつものやり取りなのだ。可笑しくもなる。  縁側で丸い皿に盛られた小豆の水ようかんを頬張りながら、亜久里は夏海と他愛ない話をする。学校の成績表が散々だっただとか、保健委員会に入ったことだとか、周りが高校に上がってから化粧やコスメの話をしているがついていけないだとか、本当に他愛ない話を、夏海はうんうんと聞いていた。  その中で「クラスにおばあちゃんと同じなつみって子が居たよ。漢字は違うけど」という話になって、ふとおばあちゃんの夏海が空を仰いだ。 「なつみ、ねぇ……ワシが亜久里ちゃんくらいの時は、何とか子だとか、何とか江だとか、そういう名前が多くて、よく男子に『名前はハイカラなのに相良自身はパッとしないよな』って言われたもんだよ」  「相良(さがら)」というのは夏海の旧姓である。亜久里はえー、と怪訝な顔をして水ようかんを頬張った。 「なーにその男子。失礼しちゃうね。そういう自分はどうなんだってーの」 「ワシも気が小さかったから、反論も喧嘩も出来なかったけど、確かにあいつらもパッとしてなかったね」 「でしょー?」  亜久里は水ようかんの最後の一すくいを口内にかき込んで握り拳を作った。 「そうやって人を馬鹿にする奴ほど中途半端でパッとしないの!」 「亜久里ちゃんは優しいねぇ。ワシなんかのためにそんなに力説してくれるなんて」  水ようかんが口からこぼれ落ちないように右手で押さえながら、亜久里は拳をぶんぶん振り回す。 「なつみおばあちゃんだからだよ。あたし、なつみおばあちゃんだーいすき! 優しくて品が良くて、何よりいつもお菓子出してくれて……」 「おやまぁ、現金な子だねぇ」 「それにね」  水ようかんをごくりと飲み込むと、亜久里は夏海の方を向いて満面の笑みをした。 「夏海って名前も、だーいすき! だって、夏の海はみんなが遊びに来る人気の場所なんだよ。なつみおばあちゃんは、みんなの憩いの場所なんだから!」  夏海は一瞬呆けてしまったが、すぐに顔をくしゃくしゃにして「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。その目尻には、薄らと涙が浮かんでいた。 「亜久里ー!」 「亜美じゃん。どうしたの?」 「どうしたのじゃないよ。私との約束すっぽかしてあんたは何やってんのよ」  栗色のポニーテールを揺らした亜美が、ぷんぷん怒りながら玄関先から亜久里を呼ぶ。亜久里は亜久里で「あーっ、ごめん十時にショッピングモールだったっけ」なんて呑気に頭をかいていた。  夏の厳しい日差しが空のてっぺんを目指して昇りだしている。暑く、しかしそれでいて爽やかな風が駆け抜けた。
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