鉄壁Ωの妥協

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鉄壁Ωの妥協

「僕は絶対に認めないからな……っ!」  慶は思わず叫んで、慌てて息を飲みこんだ。乱れた淡い栗色の髪がやや視界の邪魔をする。指先で払い、小さく息を吸い込んだ。ここが、社員たちのいるフロアじゃなくて良かった。  秘書の井伏(いぶせ)拓実(たくみ)はどこ吹く風と、眉ひとつ動かさない。小柄な身体は慶よりも頭一つ分小さい。スーツではなくニットセーターとジャケット。ゆったりした股上の深いパンツの腹部はふっくらとしている。 「慶さん。今回ばかりは主義を曲げていただきます」 「な……急な産休の引き継ぎを一任したのは僕だが、こんな、まさか……」  興奮のあまり、あろうことか声が詰まる。それも予想通りだったのだろう、拓実はジッと慶の興奮が治まるのを待っている。  長い付き合いに甘えて、つい取り乱してしまった自分を恥じた。小さな深呼吸を数回繰り返して気分を切り替える。脳に酸素が届いたところでやっと冷静な思考が戻ってきた。 「僕はアルファとは接さない。知っているはずだろう?」 「ええ、存じてます。ただし、先ほども申し上げましたが、今回だけは曲げてください」  真っ直ぐに慶を見上げる拓実は一歩も引く気を見せない。普段が控えめなだけに、その意志の強さに怯みそうになる。  ここは慶が立ち上げ、代表を務める企業、you&(ユーアンド)コンサルティングの本社ビルだ。八階建てのビルにはフロアごとに細分化されたワークスペースが設けられ、社長室などの閉鎖空間は存在しない。  今、拓実といるのは会議などで使う一室だ。 「……理由は?」 「私の仕事を引き継ぐことができ、さらにボディガードを兼ねることのできる人物は彼しかいません」 「一人で兼ねなければ大丈夫だろう?」 「会場に同伴できるのは一人だけです」 「……」 「慶さんの信念は充分理解しています。我々オメガがこの企業で安心して仕事ができるのも、慶さんが考案したシステムのおかげです。ですが、今回だけは慶さんを守るアルファ性の人物が必要です」  拓実の言うことは最もだ。それでも、素直に頷けないことだってある。  you&コンサルティングは戦略的コンサルティングを得意とする企業だ。総社員数は千人未満の中小企業でありながら、その実績は国外でも認められている。  今回、慶は三十五歳という若さにして、世界的経済誌であるワールドビジョンが五年に一度特集をする「世界を牽引する一〇〇人」のうちの一人に選ばれた。それは企業規模からしても、前代未聞の大抜擢だったのだ。  そのレセプションパーティが国外で開催される。もちろん慶宛てにも招待状が届いていた。パーティと簡単にいっても、そこは各国の名だたる経営者が集まる社交の場だ。なにをおいても出席しなければならない。 「出席者でオメガなのは恐らく慶さんだけです」 「……わかってる」  かつての男女性のように、絶対ではないがバース(第二の性)にも向き不向きがある。近年の調査では大企業におけるオメガ性の経営者はほぼ皆無との結果が出ていた。オメガが得意とするのは、協調性よりも独創性で、それは芸術家などに多く見られるものだ。  ましてや、世界規模で活躍する経営者となれば、そのほとんどがアルファ性だろう。その点からいっても、慶は間違いなく注目される立場にある。  you&コンサルティングにアルファの社員は存在しない。それは設立当初から徹底している、オメガとアルファを同席させないという社則によるものだ。どれだけ対策をしたところで、バース特性によるトラブルを一〇〇パーセント防ぐことは不可能だ。そして、両バースによる「不幸な事故」は一度起こってしまえば取り返しがつかない。本人たちの意に反した性交及び妊娠という結果になってしまうのだ。  意に反する……それは慶が最も忌むべき事象だ。だから、クライアントとの相談も相手がアルファであればウェブでの対応を徹底している。それでも、依頼をしたいと思わせるだけの実績を築き上げてきた。  今やyou&コンサルティングは、決して安くない依頼料にもかかわらず、一年先まで契約が埋まっている。 「眉目秀麗で優秀な経営者。そんなオメガである慶さんと親しくしたいアルファのトップは間違いなく存在しますよ」 「だからといって……」 「慶さんは別に同行者を紹介しなくてもいいんです。ただ側に連れているだけで充分なので」  慶がアルファと直接会わないことはよく知られている。そんな慶がアルファのボディガードを伴ったとしたら、そこにパートナーたるを想像させるだろう。拓実は勝手に想像させろという。勝手に想像して、慶に必要以上に近づくことを遠慮してくれればいい、と。  その後なにか言われたところで、あれは期間限定で雇ったボディガードだったと平然とした顔をして答えればいい。  勘違いしてもらうにも、オメガやベータでは弱いのだ。オメガである慶のパートナーとしてはアルファが適当だと一般的にはそう思われている。 「……信用できるのか?」  その声は我ながら悲壮感が漂っていた。頭ひとつ低い拓実が柔らかく微笑んで頷いた。 「私が保証します。慶さんが危惧するごく稀なトラブルがあったとしても、決してあなたの意に反する行動はしません」  そんなもの断言できるはずがない。できないからこそ、慶は社則に勤務中における両バースの対面を禁じているのだ。けれど、慶が最も信頼を寄せている拓実は、真っ直ぐに慶を見てそう断言する。 「私の従兄弟の友人なんです。身元も間違いありません」  小さなころから見知った間柄だと、少し気まずそうに白状される。縁故(えんこ)のような紹介に、不公平を感じて申し訳なく思っているのだろう。  だけど、慶が気にしているのはそこじゃなかった。バース検査の結果が出た日からこれまで、慶は徹底してアルファの人間を避けてきた。入学したてだった大学もオメガのみの大学に変更し、就職はせずに起業した。 「まずは会っていただけませんか? 今なら私も同席していますし、どうしても合わないようでしたら別のアルファ性のボディガードを探します」  気づかれないように握った拳がじんわりと湿気を持ち始めていた。 「……わかった」  しぶしぶ頷いた慶に、拓実が肩の力を抜いた。会議室を出た拓実が、別室に待たせているアルファを連れてくる。それはきっと五分もかからない。  慶は会議室の机に行儀悪く腰をかけ、大きなため息をついた。  もし、万が一があったら?  もし、そのアルファが運命の抗えない相手なのだとしたら?  唇をぎゅっと噛みしめる。それはどうしても受け入れられないのだ。その相手が例え、この世界でいちばんの人格者なのだとしても、自分の意思以外のものに左右されて結ばれるのだけは耐えられない。  慶は机から下りると、隅のキャビネットから事務用のナイフを取りだした。それを、そっとポケットに忍ばせる。もし、これを使えば大変な事態になるのだろう。  それでも――。
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