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「どうぞ」
お茶を二杯、出された。
「八野圭人さん。お返事ができていなくてごめんなさい。迷っていたもので…
本人とお会いするのが正しいことかと。
お伝えするのが、あなたにとって良いものかと。
なにしろ、大変なことが起こってしまったものですから」
その女性は、お茶を手でさして、どうぞ、と言った。
口ぶりからして、その人が中島章太郎なのだとわかった。
俺は八野と一緒に湯呑みを手に取り、一口だけ飲んだ。
「おいしいですね」
「そうでしょう。この前台湾に行きましてね、その時に買ってきたんですよ」
「台湾ですか。楽しそうですね」
俺は、なぜこの女性と世間話を始めているんだろう。
それは八野が黙ったままだからだ。
「ええ、それはもう楽しかったですよ。何度も行っているけれど、飽きないのよね。人も街も、生き生きしていて。
至る所に物語があって…だから筆が止まると、あの場所に行こうと考えるんですよ。
そうすると、忘れていたことを思い出したり、知らなかったことを、知らなかったと分かったり。」
古き良き和風の部屋。
爽やかな風が通った。
ししょーは、置き物のように、俺の膝の上にいた。
テーブルの上には、八野の持ってきた菓子折り。
八野が口を開いた。
「…単刀直入に申し上げます。
中島章太郎先生。
今回、主演が僕に代わったことを、お詫びします」
八野は頭を下げた。
そのまま、頭を上げずにいた。
先生は言った。
「では、私も単刀直入に、あなたに真実をお伝えします」
ぐぅ、と猫の喉が鳴った。
「亡くなったんです。
俳優の、近重 拓実さんが」
近重 拓実
ちかしげ たくみ
職業 俳優
享年25歳
死去日 2022年5月2日
「…亡くなってたなんて。どうして」
「…」
“あなたには、彼のことで悩んで欲しくなかった…。
本当は昨年に近重さん主演で制作されるはずだったこの作品が、そのまま今期に採用されたのは、テレビ局の皆さん、監督、プロデューサーが、私を信頼してくれたからこそでしょう。
そして、八野圭人さん。
あなたが主役に選ばれたことは、私には、運命のように思えます”
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