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中学時代、
俺は不登校だった。
「森山、給食」
「…」
「食って帰れよ。向井に持って来させるから」
「いや…あの僕は」
「向井も心配してるから、少し話してやれな」
「… 」
ノックが聞こえた。
「森山ー」
扉が開く音に体がびくついた。
「いたいた。はい」
給食のトレーが、大きな机に置かれた。
スープが少しこぼれている。
「ありがとう…ごめん」
なんて、言っても何の免罪にもならないけど。
「いいよ別に。体調悪いんだろ」
「…うん…」
「お前部活は?」
「最近は…休んでる」
「ふーん、もうすぐ大会だろ?行かなくていいんだ?」
「うん…」
「まあ頑張れよ」
「うん」
「じゃあなー」
給食はいつも冷たい。
冷めたスープ、白米の銀色の容器。
骨の多いざん切りの魚。野菜の漬物。
白菜、にんじん、玉ねぎ。
変わらない栄養素。
世界には、もっと不幸な子供たちがいます。
募金を喚起するCMを思い出す。
世界平和に何も役に立たない人間が、
こうして贅沢に並べられた食事を見て思うのは、ありがたみではなく、
惨めな申し訳なさだった。
いつからだったか、
教室に通えない生徒が、出席の体裁作りに集まる部屋にいた。
本を読んだり、たまに渡される課題のプリントや学校からの書類をこなしたり。
カウンセラーに話をしたり、当番制で不登校教室の監督役になった、辞めた部活の顧問との気まずい空気をただ耐え忍んだり。
何で俺がこうなってしまったかは、誰も知らないと思う。
人生に絶望していたし、大人にもうんざりしていた。
未来なんていらなかった。
そして、そんな時に聞こえてくるのは、不登校教室を通り過ぎる同級生の会話。
「まじ?お前毎日森山の運び屋やってんのかよ」
運び屋。
俺に給食を運ぶ係。
彼らはそれに名前をつけて、揶揄している。
「マジ。黒田に頼まれてさ、てか何で俺なん?席近いから時間割とか聞いてただけなんだけど」
「それで友達認定されちゃったかー、あいつマジ誰とも話さないもんな」
「食う時間減るし運ぶのだりーし、マジ勘弁してほしいんだけど。
せめて当番制にしてくれねーかな。つか給食ぐらい自分で取りに来いよ」
「無理だろー、死刑席だぞ」
彼らは、ある凶暴な生徒の隣の席を、
死刑席と呼ぶ。
とある事件の後、
そこに座ることになった生徒は死ぬと言われるようになったから、らしい。
「まあ、森山の席固定されてるしな」
「そのおかげで犠牲者出なくなったし、結果ありがたいと思わないとな」
「そう考えたら運び屋も仕方ないか…
いや、何でそれが俺なんだよ。
クソだりーって」
「森山もお前も運悪いな」
「森山と俺を並べんな」
そんな、俺の学生生活は、とても静かで暗くて、生暖かく日の当たらない場所で、湿った空気の中だった。
そこにいるしかなく、
そこから出ようとも
何かを発する勇気もなく、
自らその静かな檻の中に戻った。
自分は弾き出された不良品のようだった。
フランツ・カフカの「変身」を読んだことはあるか?
いつかの授業で、俺は手を上げた。
主人公が、ある日目が覚めると巨大な虫になっている話です。と、発言した。
まさに俺はそうだ。
俺は、巨大な虫で、言葉をうまく話せない。
見えて、聞こえて、食えて、動けるけれど、他の人間とは、別の生物のような気分だった。
ただ、俺は生きるために生きていた。
死んではいけない。
生きていなければいけない。
そんな、どこから生まれたか分からない強迫観念に囚われて。
それを本能と呼ぶのなら、そう。
虫は、何のために生きているんだろう?
蟻の頭を潰しても、動くんだよ。
保育所のとある子供が、そう言って蟻の頭を潰した。
その子供と、蟻を踏んで遊んだ。
追いかけっこだった。
蟻と人間、どっちが速いか?
踏んでも動くのは何故だろう?
俺はそうやって遊んだ。
蟻はどれだけ踏んでも死ななかった。
多分、その蟻のように、俺は生きているのだろう。
巣に帰る。
餌を運ぶ。
幼虫を育て、巣の中の秩序に従う。
与えられた義務を全うするため、
俺は意志もなく生きている。
俺を踏みつけてくるのは、無邪気な子供のような、自然の摂理という名前の理不尽な運命だ。
俺は人間で、とある日、虫になった。
それはいつだっただろう?
いつから虫になったんだろう。
虫のくせに、どうして感情を持って、
苦しんで、たまに快楽を得て、
喜んで、絶望するんだろう?
虫なら、何も考えず、悲しみも喜びもなく、死を待つだけで済んだのに。
どうして俺は、苦しまなければ生きていけないのだろう。
あの蟻のように、頭が潰れても動き続けることができないのは、なぜだろう。
痛みを感じてしまうのは何故だろう。
この体はまるで檻のようだ。
きっと、前世で悪い徳を積んだのだろう。
人間なんて最も面倒で利口なものに生まれてしまったのは、そういう理由なんだろう。
「森山、この日校外学習ってかまあ、遠足みたいなもんなんだけど行かないか?」
「…すみません」
「そっかー…でも海行くんだぞ海ー」
「…はい…」
「水族館も行けるぞー」
「……大丈夫です」
「行くだけ行こう、な。ほとんど自由行動だし、向井も」
「いい、です」
「ん?」
「向井君には、もう、何も、頼まないでほしいです。すみません」
「…そうか。わかったよ、じゃあ、返金のこともあるから、お母さんにも伝えといてくれ」
「はい…」
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