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「これは何に見えますか?」
絵の具で描かれたような、子供の描いたような、抽象的な落書きだった。
少なくとも、俺には落書きに見えた。
蝶々のようだったり、人のようだったり、木や自然のようだったり。
形は様々で、これといった掴みどころの無い、何を意味しているのか分からない絵だ。
雲を見て、それが何の動物に見えるか?
と聞かれているような気持ちだった。
どうでもいい。
雲は雲だろう。
落書きは落書きだ。
しかし、そんな答えでは納得してもらえないから、なんとかその雲から何かを連想しようと見つめ続けた。
「これは?」
「これはどうかな?」
「うん、うん…」
落書きを見せてくる男は、意味ありげに頷きメモを取る。
全く、この男にどんな資格があってこんなことを俺に強いるのか。
正直、そのテストに意味があるとは思えなかった。
心理士なのか、カウンセラーなのか分からないが、高い金だけ取られて、結果も何も聞かされなかった。
その上、そのテストはとても退屈だった。
子供の落書きを何枚も何枚も見せられ、
それが何に見えるかと、延々と聞かれるだけ。
期待されているような猟奇的な答えを考えもしたが、俺にも理性があって、
心神耗弱などと言われては洒落にならないことはわかっていた。
いかにも家庭に蝕まれた思春期の少年らしく、俺は丁寧に真面目に、真剣に考えて答えてやった。
「それは…父のようです」
「それはどうして?」
「緑や青色…落ち着いた感じで…
森や泉のような…穏やかさがあるから」
そう、俺は親に愛されたいと思っている、ごく一般的な社会不適合で自閉傾向のASDだ。
そう言ってくれ。
「そうか、君には、そう見えるんだね」
男は、はっきりとしたことは何も言わない。ただ俺の答えを書き写す。
馬鹿げたテストだ。
きっとこの男には何も分からないに違いない。
俺の精神に突出した異常はないとわかるはずだ。
そして、そのテストが科学的な根拠に基づいた有名なものなんだったとしても、俺には夢分析のようなものにしか感じられない。
どんな試験紙に水をかけたって色が変わらないように。
俺は透明な、空っぽな存在だ。
何を入れようと、何を混ぜようと、名前をつけようと、それはただの空洞で、無なのだ。
だから、誰も俺を治せない。
誰も俺を矯正できない。
矯正するものがないからだ。
俺には加害性がないから、放っておけば腐るだけの不良品だ。
だから、腐って溶けるのをみんな待っている。
「開けなさい!総次!」
俺の部屋には鍵がなかった。
だから、本や椅子を重ねて扉を塞いだ。
あの人は、無理にでも扉を開けようとしてくる。
ゴンゴンと扉に当たる椅子と本の山の音、どんどん崩れていくバリケードが、
俺を破壊していく。
この家には居場所がない。
扉くらい閉じさせてくれ。
この中で俺が孤独死したって、
あなたには関係ないじゃないか。
「全部私が悪いってこと?」
「あなたが学校に行かないのは、私の育て方が悪いからよね」
「家にいるだけなんだから、家事ぐらいしなさいよ」
「もうあんたにはご飯作らないから。自分で作りなさい。洗濯も掃除も、私に押し付けないで」
「頭が痛いの?病院に行けばいいでしょ。そんなことで学校を休まないで。」
「生まれてきてごめんなさい…?
笑えるわ、思ってもないくせに。
何でもそうやって卑屈になって謝ればいいと思ってるところがムカつくのよ。」
「どうして私が学校に電話しなくちゃならないの?自分でしなさいよ」
「今日で何日休んだかわかってるの?
このままじゃ留年するわよ」
「あなたは心が弱すぎる。
私は毎日働いて、あなたの世話もして、こんなに頑張ってるのに。
休みもせず働いてるのに。
どうして学校に行ってくれないの?
私を苦しめたいの?
会社に向かう途中、涙が出てくるの。
あなたが学校に行かないから。
こんなに働いても、あなたは家に引き篭もるだけなのに。
何のために働いてるのかわからないわ。
あんたなんかのために、いくら稼げばいいの?
私は召使じゃないんだから。
死にたいなら好きに死ねばいいのよ」
わかった。
わかった。
わかってる。
死ぬ勇気がないだけだ。
言い返す言葉もない、
あの人の言う通りだ。
机の下に潜って、いくら息を潜めていたって、電気を消していたって、自分は消えなかった。
どうしたって自分はここに存在していた。
ここまま目が覚めなければいい。
朝が来なければいい。
自分が死ねばいい。
自分さえいなくなればいい。
自分が全て悪い。
消えてしまいたい。
生きているだけ金の無駄だ。
彼女の言う通り、俺が生きている限り、彼女が稼いできた金を無駄に使うだけだ。
彼女の人生において、俺を産んだことは間違いだった。
産んでくれと頼んだ覚えはなくとも、
生まれた後、俺はこんなふうになってしまった。
生まれた時から不良品で、あの人の育て方に問題があり、俺の育ち方に問題があった。
育ち方を間違えた。
そこに責任がある。
俺は、彼女の代わりに、
この命の責任を取らなければならない。
俺は蟻ではない。
人間である。
だから、自分を殺すこともできる。
自殺をする動物は、この世界にどれくらいいるのだろう?
きっと、人間くらいだろうと思う。
そうであってほしい。
もし、機械的に、合理的な理由で、生まれた生物が一定の確率で自死するように仕組まれた世界であるならば、
そんなに悲しいことはないからだ。
人間が少しバグを起こしただけで、
他の動物には自殺願望などないはずだ、
そう思いたい。
そして、俺が自分の意志で死ぬのは、
人間だからだ。
人間であることを証明するのが、
この行為なのだ。
そう思いたい。
もしあの蟻が、俺に踏まれるように頭を差し出してくるようなことがあったら、
俺は蟻と同じということになってしまうじゃないか?
俺は蟻ではない。
自ら首を斬首台に乗せるのは、
人間だからなのだ。
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