怪盗は来たか

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 関東大地震の翌年に如月が英国から戻った時、バラックばかりが立ち並び、浅草十二階も一丁倫敦もなくなって、東京はやたら平らになっていた。その平坦で焼け焦げた地面の上に、新しい街が生まれつつある。その産声は逞しく、頼もしい。その力強さに如月は圧倒され――また不安も感じるのだ。  早く復興しなければ、立ち上がらなければ、という強迫観念のようなものがある。凄まじい情熱や熱気は一種の躁状態で、そこからはみ出した者、(いま)だ立ち上がる気力を持てない者は、裏切者、無能者のように冷眼視される。  個人の意思で、復興に貢献することは素晴らしい。しかし意思の単位が大きくなれば、最大数の意思のみが全体の意思と解釈され、ついていけない者は異端と切り捨てられる。走り出したバスが良識のルートから外れたとしても、理性がブレーキを踏む余地は恐らくなくなる。  そのことに、如月は危惧と息苦しさを覚える。誰もが同じバスに乗れるわけでも、乗りたいわけでもないのだ。 「あの時この国にいなかった僕は、東京という都市(まち)の感情から取り残されているんだ、きっと」  躁状態で麻痺してしまっているから、どぎつい娯楽でなければ満たされない。だから義賊でもない窃盗犯を『快盗』などと持て囃し、その犯行に快哉を叫んでいる。  喜ぶ民衆も、『快盗』と呼ばれて恥じることもない犯罪者も、この街を襲った悲劇とそれが生み出した激烈な感情のうねりに呑まれているのだろう。震災を経験していない如月は、幸か不幸か呑み込まれることなく、モヤモヤと異端の焦燥を(かこ)っているというわけだ。
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