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あの時この国にいなかったから、親族の安否もしばらくわからず、報道はあれども被害の実態は想像もつかず、国費留学のため即時帰国も叶わなかった。手の届かないところで故郷が失われていく不安と無力感は、大噴火の後の火山灰のようにいつまでも降り積もり、消えることのない層を成す。支援を募る慈善活動だけが、異国の地にいて何もできない在外邦人の、唯一の免罪符のようだった。
そうしてどうにか学業を修め、三年ぶりに戻った東京は、別人の顔をしていた。遅れてきた慟哭と虚脱を受けとめるものは、そこにはなかった。
「仁礼君、あの時この国にいなかった君は、そうじゃないのかい」
「私がいたのは大陸――上海だ。爛熟した、毒々しい妖花のような魔都だ。そんな場所に何年もいたのだから、麻痺というなら、私も麻痺しているのだろうな」
透き通ったビー玉の眼をして答える仁礼の、言葉の奥にある感情はわからない。自嘲かもしれないし、倦怠かもしれない。
犯人はきっと、暴れ馬のような自身の退屈を制御できずにいるのだろう。派手な舞台を拵えて踊り、煌びやかな宝石を手に喝采を浴びることで、ようやく満たされているのだろう。
越えてはならない一線を越えてしまった者が、この帝都で今も息をしている。
如月宛ての予告状は、犯行日を指定していない。事件は始まらなかったのかもしれないし、終わっていないのかもしれない。
もう一枚の予告状に記されていた犯行予告日の翌日──つまり昨日の夜、如月は満開の桜の枝を一枝剪り、花瓶に挿して玄関の前に置いた。一枚の紙片と共に。
『これきりにしてください』
今朝見ると、桜の枝と紙片は消えていた。何の返信もなく、誰が持ち去ったのかもわからない。
如月は呟いた。
――怪盗なんて、いない。
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