2.先生

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2.先生

 空は晴れているのに、気分は憂鬱だった。  いつものランドセルに加えて、腕には謎の黒い卵。  物理的にだけでなく心も重い。  四月にしては日差しの強い空の下、見知った人々が行き交う住宅街の中で蘭太は強引に歩を進める。頭の中では先程の食卓の風景が蘇り、ふうっ、と溜息が漏れ出てしまう。  とりあえず両親に触れられたらまずいと思い持って来たものの、これからどうするべきだろう。ふとそんな考えがよぎる。結局この卵の正体も分からずじまいだ。早く何とかしないと。危険な生き物が生まれてきたら大変なことになる。  そう額の汗を拭いながら、赤信号の前で熟考する。目の前を通過する自動車の数々。不意に腕の中で何かが震える感触を覚えたものの、勘違いだろうと無視した。  そして信号が青に切り替わったその時、ふと一つ妙案が浮かぶ。  森山先生に訊いてみるのはどうだろうか。  蘭太の担任の森山先生は理科が好きだった。休み時間に外へ出た時、ふと見つけた虫や花の名前などを周りの生徒に得意げに解説するのだ。いつも話が長いあの先生のことだ。きっとこの卵の正体も分かるかもしれない。  横断歩道を渡り切った頃には、蘭太の足取りも軽くなっていた。何なら駆け足で向かっていたかもしれない。卵の重みで凝り始めていた肩も、春風に乗ってすっと抜けて行ったかのようだ。  幼い喧騒が徐々に大きくなっていく。艶めいた黒で覆われた景色から、そっと顔を上げる。少し年季の入った校舎の周りを、桜の花びらがひらひらと舞っていた。 「失礼します!」  そう言って職員室に入り、教員用の長机の間を縫って進む。目的地では、生物の資料や恐竜の化石のフィギュアを机に並べた小太りの男が細い目で蘭太を見つめていた。 「先生! これ! これを見てください!」  大きな卵を持ち上げながら、声を張り上げる。先生の目がそちらに向くと、反応を示すかのように僅かに大きくなった。この微々たる変化が、蘭太の気分を高揚させる。 「今日家の庭に落ちてたんです。何の卵か分からなくて……多分危険な生き物が入ってるんじゃないかなって思ってるんですけど。先生は何の卵か──」 「全くもう、駄目じゃないか」  不意に、森山先生の気だるげな声が説明を遮る。口臭の酷いわざとらしい溜息が、期待に満ちた空気間を一気にすり替えてしまう。 「授業に関係のない物を持ってきちゃ駄目だって、何度も言っているだろう? 四年にもなってそんなことも判らないのか」 「えっ、いやでもこれは……」 「どうせアニメのグッズか何かだろう? 何の遊びに使うかは知らんが、低学年に真似されたら困るから教室に持っていくようなことは……」 「先生、違うんです。アニメのグッズとかじゃありません」  大人の圧力に押されながらも、蘭太は真っ直ぐに先生を見据える。 「本当に卵なんです。黒いし大きいから普通の卵じゃないのは確かなんですけど、そのまんま放置するのも何だか怖くて……先生なら何か分かるんじゃないかって思って」  そこまで説明したところで、蘭太はふと腕の中の卵が仄かに温かくなったことに気づく。はっとして目線を落とすと、あの銀色の唐草模様が今までで一番強く鮮やかな光を放っていた。  その光が消えるのと同時に先生の方を見ると、彼の気怠そうな表情が微かに変化していた。流石に信じてもらえただろう。念押しにと蘭太は説明を付け加える。 「ほら、先生も見ましたよね? この卵、光るんです。絶対に危ないヤツの卵だと思うんですよ。先生だったら生き物について詳しいですよね? 何かその……攻略法みたいなものとか分かりますか?」 「ふむ……じゃあ単刀直入に言ってやろう」  回転椅子を動かした先生は蘭太に面と向き合い、おもむろに口を開いた。 「今すぐ自分の嘘を認めて、先生にそのオモチャを預けることだ」 「うそって……えっ?」 「先生がそんなつまらん子供騙しに付き合うと思っていたのか? さっき卵が光ったのもオモチャのギミックみたいなものだろう? 君も解っているだろうが、その程度で先生の目を騙せるわけないだろう」  先生の叱責を受けて蘭太は思わず意識が抜けそうになり、寸でのところで耐え切った。 「なんでも君はイタズラ好きで有名じゃないか。だがいくら友達を騙せるようなネタでも、大人には通用しないものだぞ。覚えておきなさい」 「でも、本物なんですよ? ちゃんと見て──」 「はいはい。解った解った」  面倒そうな表情で何度も頷きながら、先生は蘭太に向かって両手を開いてみせる。 「解ったから、先生にそれを預けなさい」 「せんせい……」 「確かに友達と遊ぶのも大事だが、何よりも学校は勉強をする場所だ。ちゃんとした大人になるために、最低限のルールは守りなさい。……君もこれ以上説教されるのは嫌だろう?」  蘭太の卵を抱く力が、無意識に強くなっていった。  確かにここで預けてしまえば、余計な問題事を起こさずに済む。それに直接卵を触れるわけだから、あわよくばオモチャじゃないと信じてもらえるかもしれない。一石二鳥じゃないかと幼いながらに理解した。  しかし、ここで手渡してしまえば学校終わりまで卵が手元から離れることになる。その間にもし孵化してしまったら? 僕が卵を手放したせいで別の誰かが痛い目に遭うとしたら? 果たして自分は責任を取れるだろうか。どうしようもなく重い錘を、この小さな背中で背負いきれるだろうか。  妙に息苦しくなり、足が微かに震える。職員室が別の空間に感じるような異様な感覚に囚われる。もはや立つのも、やっとだった。 「……先生」 「うん? どうした」  無理矢理絞り出した言葉に、先生は眉をひそめた。 「ほら、早く渡しなさい」 「えっと……その……」  しどろもどろになって、固唾を呑み、気づいた時には自分でも驚く程まで叫んでいた。 「……ごめんなさいっ!」 「あっ、おい! 玉城?」  どこへ行く──その言葉を聞き取るより先に、蘭太は職員室を飛び出していた。  廊下を抜け、階段を駆け下り、異物に向けるような目線を受けながら昇降口を後にする。どこかから馴染みのある声がいくつか聞こえた気がしたが、この足を止める程の影響力はなかった。  登校中の生徒達と逆方向に進み、その数も段々と疎らになり、息が上がって立ち止まった時には周囲に誰もいなかった。いつもなら見かける近所の老夫婦とかも、今日は何故か見かけない。  ちょうど近くにあった公園に足を踏み入れ、蘭太はベンチに腰を下ろす。ガチャン、と背もたれとランドセルが衝突したところで、はあ、と盛大な溜息を漏らす。  これから、どうしようかな。  そう空を仰いだ先で、一羽のカラスが笑いながら滑空していた。
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