3.祖父

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3.祖父

 鳥の囀りしか聞こえない空間で、蘭太はただ呆然としていた。公園の時計の長針は、気づけば数字三つ分も進んでいた。  ふと卵に目を落とす。あれから模様が浮かび上がることはなかった。何か特筆する程の変化もなく、じっと日光を浴びているだけ。先生の言う通り、本当にただのオモチャなんじゃないかと錯覚しそうになる。  やっぱり学校に戻ろうか。そうぼんやりと思った、その時だった。  不意に腕の中で、どくん、と心臓のような感覚が波打った。驚いて、再び目線を移す。  銀色の唐草模様が仄かに橙色を含んで、どくん、どくん、と一定の間隔で点滅している。さっきまで見てきた点滅よりも明らかに感覚が短くなっていたのだ。  蘭太の胸の中で別の振動が波打つ。もう時間がない。パニックに陥る頭の中でそのことだけを咄嗟に理解した。  早く、何とかしないと。  この公園に投げ捨てようか。でもそのせいで誰かが犠牲になったら。いや、これ以上持っていた方が危険な気もするし……。公園の広場と出口に目を行き来させている間に卵の鼓動は小さくなり、いつしか沈黙していた。  そんなホワイトノイズのようだった頭の中で、ふと妙案が思いつく。そうだ。今までどうして思いつかなかったんだろう。  お祖父ちゃんに訊いてみれば良いじゃないか。  蘭太の祖父は生物学者だった。非常に頑固でなかなか話が通じない人だが、生き物の知識の深さは本物で一般人では分からないようなことも知っている。おまけに研究熱心のため新種の卵と聞けば真摯に聞き入れてくれるだろう。  平日だと、祖父はここから徒歩十五分程の距離にある大学で研究に勤しんでいる。道中は車の通りも多く蘭太にとっては茨の道に等しかったが、もはや悩んでいる暇もなかった。  決意を固めた蘭太はベンチから降り、ぎゅっと卵を抱きしめながら公園を後にする。またカラスの嘲笑が背後から聞こえた気がしたが、彼の心はそう簡単に揺るがなかった。  記憶を辿りつつ行き着いた研究室の扉には「一◯九 玉城」と書かれた札が付いている。  軽くノックしドアを開けると、そこには白衣を纏った老人が回転椅子に腰掛けていた。 「……誰かと思えば蘭太じゃねぇか。ここは部外者以外立ち入り禁止だ──おい何だ、その卵は」  最初は忌々しげに応対する祖父だったが、蘭太の抱える黒い存在に気づくと途端に目の色を変えた。その変化をやはり蘭太は見逃さない。 「今日の朝、庭に落ちてたの。何か光ったりするし、絶対危ないヤツの卵だと思ってる」  教授は赤縁眼鏡をくい、と上げる。 「でもみんな知らないって言うんだ。しかも工作だとかオモチャだとか決めつけてくるし……もうお祖父ちゃんしか頼れないんだ。だから──」 「素晴らしい……」  突然のことだった。蘭太の切実な言葉を、祖父の感嘆の声が遮った。 「素晴らしいぞ! 良くやった孫よ! まさかお前が生物学発展の鍵を拾ってくるとは!」 「え、えっと……お祖父ちゃん?」 「こいつは凄い……今までに例の見ない色だ。研究のしがいがある。新種の生物を孕んでいる事は確定として、あわよくば世紀の大発展になるかもしれん」  これほど興奮した祖父を見るのは蘭太としても初めてだった。正直混乱しかけたものの、この状況だったらむしろ好都合だった。ようやく、大人に信用してもらえた。 「そもそも『卵』という存在がどれほどの可能性を秘めているか、お前は理解しているか? 古来より神話などで誕生や再生の象徴として描写されてきた、まさに奇跡を内包した存在なのだよ」  教授の解説に蘭太は頷いた。自然と口端が吊り上がっていくのを感じる。 「にしても随分と荘厳な見た目だ。まるで御伽噺から飛び出してきたかのようだな。かつて想像上と謳われてきた生物が孵化する可能性も……ゼロではない」  そうだ。その通りだ。  蘭太は何度も頷いた。  この卵にはそれ程の危険性があるのだ。オモチャだとか工作とかで片付けていい存在じゃない。お祖父ちゃんだったらきっと分かってくれるって信じていた。 「まあ、色々と可能性を探るのもそいつを確認してからだ」  興奮冷め止まぬ様子でそう呟き、教授は片手を差し出した。 「蘭太、その卵をもっと近くで見せてくれないか」  蘭太は頷くと、部屋の奥まで進んで卵を机の上に乗せた。眼前に摩訶不思議な物体を見せられた祖父はまるで童心に返ったかのように事細かに見渡し始める。両手でペタペタと触れたり、虫眼鏡を通して殻の模様を観察したりする。  しかし、観察を進める中で徐々に顔色が暗くなっていき、やがて失望したと言わんばかりに溜息を漏らした。カタン、と虫眼鏡が乱雑に置かれる。 「おい、蘭太」  態度が急変する様を見て、蘭太も肩透かしを食らった気分に陥る。 「貴様、俺を揶揄っているのか?」 「えっ? そんなこと──」 「こんな、ガチョウの卵を黒で塗り潰しただけの偽物見せつけやがって。この俺の目を騙せると思っていたのか?」  段々と血の気が引いていくのを、蘭太は感じた。 「それに貴様、この卵が光ると言ったな? 貴様が研究所に入ってから早十五分ほど経っている。一度も光らないとはどういう了見だ? ただ見栄を張りたかっただけなのか?」 「えっ、いや……本当なんだって。何度も光ってるところを見てきたし、それに──」 「ええい! ガキの弁解を聞くほど暇じゃねぇんだ、俺は!」  唾と共に怒声を上げて、博士は椅子から立ち上がる。そして黒い卵を強引に孫に押し付けて、しっしと忌々しげに手を振った。 「さっさと帰れ! 貴様の顔など二度と見たくないわ!」 「そ、そんな! 少しは話を聞いて──」  弁解の余地など与えられぬまま、無理矢理肌寒い廊下に追い出される。 「少しでも見直した俺が馬鹿だったわ! 早く去れ!」  その言葉を最後に、教授は感情に任せて扉を閉める。バン、と荒々しい音が静寂な空間に木霊した。  やがて孫の去って行った研究室の中で、冷静になった祖父はふと思った。  ──はて。あんなガキがガチョウの卵を簡単に入手できるだろうか。
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