1.黒卵

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

1.黒卵

 春の日の朝、玉城蘭太は卵を拾った。  庭の真ん中に置いてあった黒く艶のある楕円形。好奇心に駆られて抱えてみるとサッカーボール並みに大きく、近所の子犬のように重かった。  怪訝に思いながら、蘭太は卵を一回り観察してみる。すると、ざらざらとした感触の殻に陽光が降り注いで、銀色の唐草模様が浮き出てすぐに消えた。思わず投げ出しそうになるのを、彼は必死で堪えた。  この卵は、普通じゃない。  ここで割ったら、大変なことになるかも。  それが、小学生の蘭太に出せた精一杯の結論だった。  一陣の強い風が吹き、伸びた雑草がいつもと違う声で囁いた。テレビでも図鑑でも見たことのない不思議な物体。その場に置くべきか持っているべきかの判断すらできず、その場で狼狽えてしまう。  とりあえず、お母さんに訊いてみよう。  そう思い、蘭太は卵を抱えたまま家の中に入った。きちんと整頓された白いダイニングルーム。早足で窓を抜けると、エプロン姿の母親がベーコンエッグの乗ったお皿を並べていた。 「もう、どこ行ってたのよ。早く食べないと学校遅刻するわよ?」  呆れた口調で叱る母に、蘭太は黒い物体を見せつける。 「お母さん、この卵見て! 庭に置いてあったの! 何の卵だと思う?」  少し裏返った声で捲し立てると、ようやく母親は卵の方に目を向けた。  眉根を潜めながら黒い物体を観察し、はあ、と溜息をつく。 「またお母さんを驚かせようとしてるでしょ? もう騙されないんだからね?」  そう言ってそっぽを向き、トースターで焼いたパンをお皿に並べ始める。 「あんたこの前もそう言ってびっくり箱見せてきたでしょう? 確かによく出来てるけど、ゴミを増やされるこっちの身にもなってよね?」 「えっ、でもお母さん。こっちは本物の──」 「ほら、早く座りなさい? 学校まで時間ないんだから遊ばないの」  淡々と支度を進める母の横顔を、蘭太は呆然と見つめた。しかし、卵が両手から落ちそうになったところで我に返り、渋々食卓へと向かう。腕にかかる重力が拾った時よりも強くなっているように感じた。 「ふわあぁ……おはよう二人とも」  椅子の前で卵をどうすべきか悩んだところで、廊下の方から呆けた声が聞こえてくる。目を向けると、ちょうど青いストライプのパジャマを着た父親がダイニングに入ってきたところだった。  ああ、と声を上げて母親が席に着いた。 「残業お疲れ様。よく寝れた?」 「まあ、それなりにはね」  そう微笑みながらも、父は大きくあくびする。言葉とは裏腹に、目元には微かにくまができており、瞼もとろんと下がっている。 「さて食べよう。……うん? どうしたんだ、蘭太? 椅子の前でボーっとして」  妻の隣に座った父は、怪訝そうに首を傾げた。いつもなら真っ先に食卓へと向かうはずの蘭太に違和感を覚えたのだろうか。そこから黒い謎の物体に目が行くまでに、さほど時間はかからなかった。 「おい、蘭太。それ……」  真ん丸に目を見開いて、父親が口を開く。  食卓の間を通り過ぎる静寂。この反応を蘭太は待ち望んでいた。  良かった。お母さんと違って、お父さんなら信じてくれる。  そう安心できたのも、ほんの束の間だった。 「……すっごくよく出来てるなぁ!」  想定外の反応に思わず「は?」と言葉が漏れ出てしまう。  肩透かしを食らう蘭太に、父は快活に笑いかける。 「それいつもの工作だろう? 凄いなぁ、質感がまるで本物の卵みたいだ。今どきの子供ってこんなにリアルなものまで作れちゃうのかぁ……」 「もう、お父さんってば……」  呆れ返った母が、眉間を手で押さえた。 「そうやっていつも蘭太に甘いんだから。そこで褒めるからイタズラが増えるんでしょう?」 「まあ、良いじゃないか。子供はイタズラさせてなんぼのもんだよ。明るく育ってくれれば俺としては本望だ」  トーストにバターを塗りながら、父は肩をすくめる。 「しっかし、今まで見た中で最高の出来だなぁ。蘭太の工作好きがここまで実を結ぶとは。これは将来デザイナーになって大成するかもな」 「もうやめてよ。流石に給料が安定した職業に就かせないと」 「そうかねぇ。就いてて楽しい仕事をさせた方が良いんじゃないか?」  そう首を傾げながら、豪快にパンに齧りつく。  いつもと同じ、何気ない日常風景。そこから切り抜かれたように、蘭太だけ卵を抱えて立ち尽くしていた。自分を取り巻く空気だけが、日常とは明らかに違う違和感で満たされている。ほんの少しだけ息が詰まって、目線を下にずらした。 「ほら、何してるの。そんなもの早く置いて、座りなさい」  普段と変わらない声音でそう言って、母が椅子を顎で指した。何の重要性も察していない呑気な面持ちとも見て取れる。  卵と食卓を交互に見た結果、渋々蘭太は椅子の隣に卵を置こうと決めた。すると、ごとん、と想像以上に重たい音が鳴って、思わず背筋が凍る。焦って卵全体をぺたぺた触ってみるも何の傷も付いていない。ほっと胸を撫で下ろした。  ふと両親の方に目を向ける。しかし悔しいことに、誰一人として蘭太を見ていない。父はトーストを食べ進め、母もサラダを小皿に取っている最中だった。  仕方なく蘭太も席に着き、食パンを齧る。何故か粘土のような味が口の中に滲んだ。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!