天色の中へ

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天色の中へ

 それは、あまりにも澄んだ青色だった。視界を覆うのは、シャボン玉のように透明な何重もの膜。その向こうに、絵の具を塗り重ねたような天色(あまいろ)の空が、どこまでも続いているのが見える。 「いつ見ても壮観だな」  ヒダカが尖った犬歯を見せつけるように、ニヤリと笑う。まだヘルメットを着用していないため、その黒檀色(こくたんいろ)の両目がはっきりと見える。 「分かってると思うがな、依頼人。この天空都市を保護する膜、そこから一歩飛び出せばマイナス何十度と言う極寒だ。空気も薄い。ヘルメットはちゃんと被っとけよ。飛び出すなり失神しても、こっちは責任もたねぇからな」 「わ、分かってますよ」  今回の依頼人である御笠夕陽(みかさゆうひ)は、無骨なヘルメットを両腕で強く抱きしめた。柳のような細い腕には、あまりにも不釣り合いな代物だ。そんな彼の姿を上から下まで眺め、ヒダカは片眉を上げる。 「いや、ひょっとして、気絶でもしてもらってた方が楽か? 戦闘中パニックになることもねぇだろうし、結果がどっちになっても知らない内に終わってる方が」 「いやいや。ダメだよ、ヒダカ」  思わず彼、タイクウは、依頼人の背後から相棒に声をかける。 「状況によっては、僕から切り離して単独でダイブしてもらわないといけないんだからね。気絶してたらそれもできなくなっちゃうよ。依頼人の安全の為にも、装備はちゃんとしてもらおうね」 「わーかってるよ! 言ってみただけだろうが」  拗ねたような声を上げ、ヒダカはタイクウの焦茶色の瞳から目を逸らす。タイクウは夕陽をタンデムジャンプで地上へと運ぶため、彼の背中にくっついている状態である。  尖ったナイフのようなヒダカと違い、タイクウはその名の響き通り、ふんわりとした毛布のような雰囲気を醸し出していた。その印象もあってか、彼は仕事では専ら依頼人の守りに徹し、こうして後ろにつく事が多い。 「無駄話はこれくらいにして、そろそろ準備するか」  どこか暢気な口調で呟き、ヒダカはフルフェイス型のヘルメットを着用する。視界が十分確保されるよう、シールドの部分が通常よりも広くとられていた。彼は黒一色のボディスーツに身を包み、背には小型化された酸素ボンベや、パラシュートなどを背負っている。肩から腰までの長さの銃が右の脇に固定され、腰には刀らしき物まで装備していた。彼は今一度それらを、ベルトでしっかりと固定する。  タイクウも身に着けた装備をチェックしていると、ヒダカが空を見据えたまま声を発した。 「最後にもう一度聞くが――後悔しないな?」  それは夕陽に対する問いだろう。タイクウから彼の表情は見えない。身長差のおかげで、その旋毛(つむじ)の辺りが確認できるだけだ。  初めてあった時にも、自分達は彼に同じことを尋ねた。その時の夕陽は完全に怯んでしまっていたが、今は違うようである。 「はい。僕は地上に降りる決断をしたことを、絶対に後悔なんてしません」  彼はしっかりと覚悟を決めてきていた。 「上出来」  ヒダカは相変わらずこちらの方を見ていない。しかし、ヘルメット越しに見えた口元は、満足げに弧を描いていた。  タイクウも思わず、口元を緩めて微笑む。何かが切れる音がして、(うなじ)の辺りに異変を感じたのはその時だった。 「ああああっ⁉」 「た、タイクウさん、どうしたんですか」  突然の大声で驚いた夕陽が身をよじる。タイクウは、籠手(ガントレット)をつけた片手で首の後ろを撫で、嘆くような声を上げた。 「仕事前なのに、髪紐切れちゃったよ。あーあ、やっぱり赤じゃなくて青にすべきだったなぁ」  タイクウは背中まで伸ばした栗皮色の髪を、(うなじ)の辺りで一括りにしていた。ほどけた髪が頬に当たって鬱陶しい。何より縁起が悪すぎる。占いなど信じて、傷んでいた髪紐を使うべきではなかったのだ。 「ねぇ、ヒダカ。ちょっと事務所に戻って、青の紐とって来ても良い?」  ヒダカは俯き、無言で応える。その肩は小刻みに震えていた。 「――んなことで一々戻れるか、アホ! 後悔すんなって言ったそばから、テメェがそんなちっちぇえ事で後悔しててどうすんだ、ああ⁉︎ その長ったらしい髪の毛、今すぐ切っちまえ!!」  顔を上げたと同時に彼は、般若のごとき表情で怒りを爆発させる。夕陽の肩が大きく跳ねたが、タイクウにとってヒダカの剣幕は慣れたものである。 「ええー? 嫌だよ、これ一応願掛けだからさ」 「願掛けだかだか知らねぇが、やるならあの下らねぇ食玩を断て! ダブりまくって同じの六つもあんだぞ⁉」 「んー、もっと嫌だなぁ。アレは僕のご褒美なんだからさ。ヒダカのお酒と一緒だよ」  一緒にすんな、とヒダカの怒鳴り声が響く。不幸にも言い争う二人に挟まれてしまった夕陽が、目を白黒させている。彼は萎縮しながら、遠慮がちに声を上げた。 「あの、その、飛び降りるには決まった時間帯があるって、おっしゃっていませんでしたっけ……?」  そうだ。天空都市は一定の軌道で、上空を移動し続けているのである。 「ああ、そうだよ、ヒダカ! のんびりしてると目標地点に降りられなくなっちゃう」 「誰のせいだと思ってんだ!」  ヒダカが行き場のない怒りをぶつけるように、籠手をつけた拳を振り上げる。緊張感のない笑い声を上げ、タイクウもヘルメットを着用した。そして仕方なく、邪魔な髪の毛をボディスーツの中へ入れ込む。少しゴワゴワするが、空中で縦横無尽に舞い上がられるよりはマシである。 「もっと緊張感持て。泣いても笑っても、この数分間で全部決まるんだぞ。無事に地上へ辿り着けるか、もしくはもっと上に行ってるか」  上とは恐らく、命を失わないといけないあの場所だろう。現在三人がいるのは、天空都市の最下層。何段もの階段を下りた先にあるそこは、航空機の元滑走路だ。一歩でも足を踏み出せば、後は下までまっ逆さまである。  夕陽が下の空を見ながら、大きく生唾を飲み込む。怖いのは当たり前だろう。タイクウですら、恐怖心がゼロとは言えないのだ。 「大丈夫」  それでもタイクウは、夕陽の肩を優しく、しかし力強く叩いた。 「タイクウさん……?」 「必ずあなたを、地上へ連れていく。僕らはそういう運び屋なんだから」  本当は絶対を約束してはいけないのだけれど、その言葉は力になるはずだから。強張っていた夕陽の肩から、ゆっくりと力が抜けていったのが分かった。 「それじゃあ」  ヒダカがうんと伸びをして、腰を落とす。彼の声は、ヘルメット越しでも不思議とよく通った。 「飛ぶぞ」  はるか数千メートル先の、地上へ。  ヒダカの声を合図に三人は大きく地を蹴り、天色の中へと身を躍らせた。
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