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水魂教
古き良き時代の日本を彷彿させる地域として、国内のみならず海外からの観光客も多く訪れるとされる岐阜県。
平成となってからまだ日が浅い今日、この岐阜県の山間の地にある、水魂教の教祖の屋敷で緊急の集会が開かれ、中の広間には、ほぼ信者で占められる地域の住民達が、緊張の面持ちで、教祖の口が開くのを待っていた。
30畳程の広間の上座には、木製の椅子に掛けた御年87の水魂教教祖、水上右近がおり、その周囲を取り囲むようにして側近達が立っていた。
村人達は銘々、敷き詰められた座布団に座り、落ち着きのないような素振りをみせていたが、それも束の間、しびれを切らした者が教祖に
「水上様、曽根川にダムを建設するって話は本当なのかい?」
と問いかける。それを合図に、広間は、一斉に騒がしくなり、人々の興奮がいかほどであるかを物語った。
水上右近は、敢えてその騒々しさに、喝を入れる事もせず、彼らの私語が収束するのをじっと待っていた。
数秒後、自分達の行儀の悪さに気づいた村人達は、はたと我に返り、明らかに人間を超越していると思われる教祖の動向を食い入るように見つめた。
水上右近は、年齢を感じさせない強いまなざしで、村民達を見ると、ゆっくりと席を立ち、人々の前に出た。
「確かに数日前、その件についての詳細内容が記された手紙が届きました。
国としては、この曽根川流域のダム建設に向けて直ちに舵を取りたいようです。しかし、こうした事は金で解決するかというと決してそうではない。
今日は皆さんから忌憚ない意見を聞かせて頂きたいと思い、お集まり頂いた。
それでは、始めます」
「新聞にも出てたけど、曽根川の氾濫を食い止めるのが最大の目的っていわれてもなぁ。ダム建設以外での方法で何とか、手を打てないものか、良く考えて欲しいです」
中学校で社会を教える教諭が、半ば鬱憤を晴らすように言う。
「工事の関係者が多く村に入って来るのは仕方がないにしても、それに紛れて犯罪者が出入りする可能性もありますよね。そういった面でのチェックは万全なのかしら?」
女が、孫に何かあったらどうしてくれる、と言うような切羽詰まった表情で訴えた。
「わかりました。皆さんの心配、ごもっともだと思います。今から先方より届いた資料のコピーを配ります。これを基にさらに話し合いを続けていきます」
水上右近がそう述べると同時に、後ろに控えていた者達が資料を配布し、より核心を衝いた話し合いへと移行する。
二時間程で会議が終わると、村人達が見守る中、先に水上右近と妻の絹が、奥の部屋へと引きあげていく。
つぎに村民達が三々五々、何かを成し遂げたような満足げな顔で、屋敷を後にした。
屋敷には、水魂教教祖の水上右近夫妻の他、右近の長女家族と右近の妹一家が住んでおり、敷地内には、宗教法人の幹部職員らの住まいも併設されていた。
右近の長女、鏡子は、娘の真梨に先に休むように言い、金融関係の職に就く夫、賢治と叔母の志乃、鏡子の"いとこ”に当たる早苗と耕三に、茶を淹れた。
志乃は、結婚を機に村を出て、警察勤務の夫と暮らしていたが、末子の耕三が生まれた直後に、夫が殉職し、子らを連れて村に戻っていた。
志乃の娘、早苗は婚期を逃し、村に一軒しかない美容室を経営している。早苗の弟、耕三は、大手銀行の支店勤務で、家族を大阪に残しての単身赴任だった。岐阜市にある支店には村から車で通勤しており、母や姉と一緒の生活は、上げ膳据え膳という事もあり、快適そのものと言えた。
「厄介な事になったわね」
志乃が掌で茶碗を包み込む様にして言う。
鏡子は、婿養子という立ち場を充分に理解している夫に代わって
「最終的には向こうはお金で形を付けようとするだろうけど、皆、それで納得するかどうかよね」
と述べ、賛成派と反対派の分裂に危惧を抱く。
「役人も、交渉術に長けた人間を投入してくるだろうからな」
と耕三が言えば、姉の早苗も
「彼らがどれだけの立ち退き料を出すつもりなのか、聞いてみる価値はあるかも?」
と、言い、皆の顰蹙を買う。賢治が
「叔母さんもお疲れのようですので、もう、休みませんか?」
と言うと、皆、席を立ち、それぞれ自室へと戻って行った。
鏡子は夫に、ここを片付けていかなければならない旨を話し、先に部屋に戻るよう促した。
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