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毒を消し去る清らかな毒
元奴隷の母は、まともな仕事にはありつけなかった。
日雇いの仕事に追われるその日暮らしの毎日。身体を酷使する母の疲労は苛立ちとなり、母は次第に笑わなくなっていった。
『私は大丈夫だから、お母さん。だから、…』
カヌスは、ただ母に楽になってもらいたかった。
その一念のみを胸に、15歳になったばかりの春、カヌスは家を出た。
家を出たその日は冷たい雨が降っていた。
フードを深く被った若いカヌスの視線の先で、赤い花びらの上を跳ねる雨粒は、まるで火花のように儚く弾けて消えていった。
* * *
今日を生きることさえ精一杯なほどの貧しい暮らしから抜け出すためには、人の嫌がる仕事を選ばざるを得ない。
それが、15歳のカヌスがコロル軍後方支援部隊、通称テネブラエに入隊するきっかけだった。
あれから、10年あまりの月日は過ぎた。
重たい防護服に身を包み、フシューフシューと独特の呼吸音を響かせながら、今日もテネブラエの面々は灰色の馬車に揺られてコロル軍廃棄処分場へと向かう。
共に積まれた密閉度の高い袋の中には、切り刻まれた有翼人亜種の死骸がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
有翼人討伐には、毎度こうして多くの有翼人亜種の死骸が出る。
有翼人は、自ら戦いに参加することはない。
彼らは、自らの生き血から生成されたと思われる疑似生命体に人間を襲わせるのだ。
有翼人たちはそのさまを、遥か上空より見下ろしていることがほとんどだった。
(有翼人にとって有翼人亜種なんて、唾を吐くのと同じくらい意味のない存在なんだろうな。)
「……かわいそうに」
意図せず呟いていた。
カヌスは、自らの横で揺れている大きな袋を見つめながら、無価値な生き物の末路に、自分を重ねていたのかもしれない。
だが不意に、カヌスの脳裏に一つの仮定がむくむくと沸き起こった。
(…あれ、もしかして、有翼人たちにとっては、こいつらの死骸を地上に残すことの方が目的なのではないのか?)
カヌスの灰色の瞳に恐怖に似た濁りが宿った。
有翼人亜種の死骸は、放置しておけば短時間で腐乱が進み、大地を腐らせる。
(大地が腐れば作物は死ぬ。…長期的に見れば、それは確実に人間を死に追いやる)
「………」
背中にじわりと冷や汗が湧いた。
カヌスは以前、この荷は処分場地下深くに棄てられるのだと、テネブラエの先輩、アドゥーに聞いた。しかし未だにカヌスは実際に廃棄されている現場を見たことがなかった。
「…先輩、こいつらの行く末を、私、見ることできないんですか?」
大地を腐らせるほどの異物の行く末が判然としないことは、カヌスの背中をますます冷やしていく。
不安をかき消すように、隣のアドゥーに聞いてみた。するとアドゥーはカヌスの不安を軽く笑い飛ばし、
「そりゃ班長の俺でも見たことがないんだ。下っ端のお前にゃ一生無理だな」
フシューフシューと漏れる空気の隙間から、呆れ気味に言った。
防護服のマスクの奥で、カヌスは「そうですよね」とだけ答えてぎこちなく笑った。
「世の中にゃ、知らなくていいことの方が多いんだよ。俺たち下層の人間にとっちゃ、なおさらだ。」
呼吸音がうるさすぎて、自嘲気味に発したアドゥーの言葉さえもかき消されていく。
カヌスはもうアドゥーに話しかけるのを止めた。
前方で、行者が馬に鞭を強く打つ。
数頭の馬が嘶き、馬車は人里慣れた山の奥へ向けて加速しながら駆けていった。
* * *
仕事を終えると、テネブラエの面々は、一旦、作業に使った防護服を洗浄するための小さな施設に入れられる。
そこから降り注ぐ洗浄液を一定期間浴びなくてはならない。
戦場で、有翼人亜種の血を浴びる傭兵たちよりも、その死骸を袋に積めて運ぶだけのテネブラエたちの汚染の方が、この地には有害とされる。
有翼人亜種の腐乱にともない漂う腐臭は、見えない粒子となってまで大地や作物を腐らせるためだった。
(死してなお厄介な)
「…いや、違う…」
洗浄液を浴びながら、カヌスはひとりごちだ。
(有翼人たちの目的は、有翼人亜種に人間を襲わせることではなく、有翼人亜種の死によって大地を腐らせることなんだ)
カヌスはそっと上を見上げた。
猛毒とも言える有翼人亜種の腐臭を消し去るというこの洗浄液は、いったい何でできているのだろうか。
(…知らなくていいということは、…誰かに不都合だからに他ならない)
やがて、ピーと甲高い笛の音が室内に鳴り響き、洗浄液の散布は終了した。
そして重たい扉が開け放たれて、テネブラエの面々は施設の外へ出ることを許された。
わらわらと外に出るテネブラエの隊員たちの一番最後にカヌスは扉を潜る。すると即座に重たい扉は固く閉ざされた。
「今日も疲れたなぁ」
「飯でも食いに行くか」
「お、いいねー」
「カヌスはどうする?」
「あ、私は大丈夫です。」
「そうか、じゃあまた明日なカヌス」
「はい、お疲れ様でした。」
施設を出て直ぐ防護服を脱ぎ、専用の鞄にそれを詰め込むと、彼らは労い合いながら各々帰路へと向かう。
誰もが嫌がる仕事だとしても、テネブラエたちの仕事は、彼らにとってはただの生活の一部にすぎなかった。
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