春に聴いた夏

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「あの、……」 何か言わなきゃと思うのに、はくはくと吐息が漏れるだけで言葉にならない。 ついていく、(しき)さんに。 それはつまり、マネージャーとして、 でも、僕は、 「なんで、…だって、僕は、ただの事務員で、」 複雑すぎる事情からマネージャーと名乗ってはきたけれど、僕は実際にマネージャーと呼ばれるほどの仕事をしていない。 経験も知識もゼロ。むしろお荷物になっていたかもしれない。その程度のことしか僕はできていなかったのに。 「ぼ、…わ、私は、色さんにそんな風に言っていただける人間じゃないです。」 混乱する頭で必死に絞り出した言葉に、色さんは困ったように笑う。 「何言ってんだよ。一緒に悩んでくれて、叱ってもくれて。(すい)さんにはいつも支えてもらってる。」 「そ、んなこと……」 「一人じゃ駄目なんだ。彗さんがいてくれたから俺はここまでsikiとしてやってこれた。彗さんあってのsikiなんだ。」 いつだって多くを語らない方だった。小さな子供が大人達の中で音楽家であろうと、迷惑をかけまいと、大人以上に大人であろうとする方だった。 言いたい事も沢山あっただろうに、いつだってぎゅっと口元を引き結び、我儘ひとつ言わず、それでも自らの音楽を真っ直ぐに貫いてきた人なんだ。 そんな色さんの口から聞く初めての我儘が、まさか、こんな、 「とんでもない事言ってるのはわかってる。でも、お願いします!」 僕の目の前で勢いよく色さんの頭が下げられ、心臓がドキリと跳ねた。 「ちょ、や、やめてください!」 あわてて色さんの肩を押して頭を上げてもらおうとしたけれど、色さんは動かなかった。 わずかに顔を上げ、その瞳が縋るように僕を見つめる。 「活動の幅は広げたい。けど、そのせいで彗さんがマネージャーじゃなくなるのは嫌なんだ。」 「そんな、だって、レーベルには私なんかよりもっと優秀な方が、」 「関係ない。俺はこれからも彗さんと二人でsikiとしてやっていきたいんだ。」 「そんな、」 そんな、まさか、 僕の事を、そんな風に見てくれていたなんて。 僕なんかのために、コンサートホールで曲を弾いてくれた。僕なんかをこの先もマネージャーにと望んでくれている。 僕に、そんな価値なんて…… 「卒業までまだ一年あるし、ゆっくりでいいから。だから、考えておいてほしい。」 ようやう頭を上げてくれた色さんは、混乱に固まる僕を前にじっと僕の言葉を待ってくれている。 まだ頭の中は真っ白なのだけれど、それでも僕は真剣な眼差しの前で小さく頷いた。 「あの、……考えます。考えさせてください。」 僕なんかを必要としてくれた色さんの気持ちに、僕はちゃんと答えを出さないといけないんだ。 人生を変える選択。今すぐに結論は出ないけれど、それでも色さんはありがとうと頷いてくれた。 「じゃあ、今日はありがとう。また明日もよろしくお願いします。」 いつものように礼儀正しく一礼してから色さんは車を降りていく。僕はその後ろ姿が見えなくなるまでぼんやりと見つめていた。 いつか色さんが遠く離れていって、僕は普通の事務員に戻って。それでも遠くからファンとして応援できれば。 そんな風にぼんやりと考えていただけだった。 sikiのマネージャーになる。それは、今までの生活を捨てる事だ。 多大なる恩のある会社を離れるということ。sikiというアーティストを支えるための勉強をほとんど一からやらないといけない。今までの生活を変える覚悟を決めないといけないんだ。 でも―― 色さんの姿が門の奥に消えてから、僕はハンドルに突っ伏しほう、と大きく息を吐いた。どうやら知らぬ間に緊張していたらしい。 全てを変える決断はすぐにはできない。 でも、色さんは望んでくれた。僕を必要としてくれた。 色さんの隣で、色さんの音を聴き続ける権利を僕にくれたんだ。こんなにも嬉しいことは無い。 ずっとずっと見守ってきたんだ。これからも、できるならそばで支えたい。 ……でも、そうするためには今ある環境のほとんどを変えてしまう覚悟を決めなければ。 降って湧いた悩みに、僕はもう一度深く息を吐き出した。 ヴーッ ヴーッ 車を走らせることも忘れて呆然としていれば、スーツの内ポケットにしまっていた社用のスマホが振動して着信を知らせる。 誰、…… いまだにどこか現実味がなくてぼんやりとしたまま画面を確認すれば、表示されていた名前にほんのわずかに心臓がトクリと音を立てた。 オリヴァー・グリーンフィールド 「……、」 出た方がいいのだろう事はわかっていたけれど、僕の指は動かなかった。 今日は本当に、本当に色々ありすぎて僕の頭はぐちゃぐちゃで、冷静になるだけの時間がほしかったから。 もう何にも心乱されたくなかった。 「……帰ろう。」 手にしていたスマホを助手席に伏せ置く。 僕は初めてオリヴァーの着信に無視をして、そのままエンジンをかけ帰路へとついた。
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