442Hzの優しさ

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なに、言ってるんだこの人は。 弾く、ヴァイオリンを、僕が、 そんな、そんなの、 「ほら、」 ずいっと突きつけられて、拒否しようと広げていた手にわずかにヴァイオリンが触れる。 瞬間、懐かしい感触にびりりと身体が震えた。 「む、無理です!」 思わず椅子から立ち上がり両手をブンブンと振って全力で拒絶すれば、オリヴァーの口元がムスッとへの字に曲がる。 そこにまぁまぁと助け舟を出してくれたのは黒澤さんだった。 「プロが二人もいる前で弾けなんて、俺ら凡人には恐れ多すぎて無理ですよ。」 ねぇ?とふられて、僕は全力で頷いた。 「あ、でも触らせてもらっていいです?」 「……構わない。」 さりげなく強引なオリヴァーから守ってくれた黒澤さんは、お借りしますと断ってからヴァイオリンを借り受ける。(しき)さんも気になるようで身を乗り出してきた。 むすっと頬を膨らませてデスクに片肘をついたオリヴァーは皆して見ないふりだ。 黒澤さんはヴァイオリンを手にすると裏板を確認し、スクロール、f字孔と注意深く観察していく。 「アマティ……いや、シュタイナーですか?」 ズバリ言い当てた黒澤さんに、ほう、とオリヴァーが片眉をはね上げる。 「シキのと違って学習モデルだがな。」 ヤコブ・シュタイナー。その当時はストラディバリウスの名声すら凌いだとされる名工だ。だからこそ彼の作に影響を受けた学習モデル、通称シュタイナーモデルが数多く作られている。 ちなみに、色さんのヴァイオリンは学習モデルではなくオリジナル。オリヴァーのグァルネリと同じく、こちらも家一軒が余裕で買えてしまう逸品だ。 「学習モデルでもこれオールドヴァイオリンですし、多分かなりのお値段するやつですよ。ファーストヴァイオリンとして気安く買えるやつじゃ絶対ないですって。」 おそらくはf字孔の中にあるラベルを確認したのだろう黒澤さんが顔をひきつらせる。 気になって手元を覗き込んだ色さんも、げ、と声をあげたところをみると中々の年代物らしい。 僕も見たいです……とは恐れ多くて言えなかった。 「常に最高を求めなければ、プロになどなれるはずもないからな。こいつは当時のオレに出せた最高の音だ。」 あ、これ絶対気安く触っちゃいけないやつだ。 手ぇ震えてきた、と黒澤さんは手にしていたヴァイオリンを早々にオリヴァーへと返した。 オリヴァーはそれを横たえるようにそっとケースに戻し、そのまま蓋を閉じる。 今は使っていないと言っても、オリヴァーにとっては大事なものなのだろう。いつもは雑にものを扱うくせに、その手はグァルネリに対する時と同じように優しい。 蓋にロックをかけヴァイオリンをしまい込んだオリヴァーはおもむろに席を立ち、手にしたそのケースを、 「ほら、」 何故だか僕の目の前に突き出してきた。 「え?」 「オレは今からスタジオで弾かねばならないからな。預かっておけ。」 シーが一番暇だろ?と意味深な笑みと共に言われて僕はその場に固まった。 そりゃ、色さんや黒澤さんみたいに直接レコーディングに関わる訳では無いけれど、アマンダさん……は、そうか、女性に荷物を持たせるなんてありえない文化の人なのか。 いや、でも、これは、 「ほら、シー。」 ずい、っと突きつけられる飴色のケース。 「え、あの…」 助けを求めようと視線をめぐらせても、アマンダさんは……我関せず、というか巻き込まれないようにあえて視線をそらせてる。 色さんも黒澤さんも意識は既にヴァイオリンからレコーディングへと移ってしまっているようで、僕らのやり取りなんて気にも留めていない。 「おい、オリー、早いとこレコーディング始めるぞ。」 それどころか急かしてくる色さんの要望を叶える為には、僕はこれを預かるしかないわけで。 「あの、えっと……」 逃げ場が、ない。 「おい、シー。」 「は、はいっ、」 ぎ、と鋭くなるオーシャンブルー。早くしろ、と急かされ、僕は震える手でそのケースを受け取った。 ずしりと、覚えのある重みが両手にかかる。 「それじゃ、預けたからな。」 「あ、……」 ぽんっと肩を叩いて、オリヴァーは録音ブースへと去っていってしまった。 どうしよう。 絶対、絶対何かよからぬ事を考えているはずなのに、拒否権がない。 マネージャーとして、ただ荷物を預かっただけ。どこにでもある、普通の光景。 でも、ここにあるのはもう二度と手にすることは無いと、諦め手放したヴァイオリンだ。 懐かしい重みに、ぎゅっと心臓が締め付けられる。 僕は結局逃げることも目を背けることもできずに、レコーディングの間ずっと膝の上に切なく懐かしい重みを感じていた。
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