豚肉

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豚肉

家に帰り、殺風景な部屋に置かれた大きな冷蔵庫を開けて、男は嘆息を洩らした。  冷蔵庫に隙間なく並べられていた、彼の大好きな《豚》の肉が、冷蔵庫の片隅に追いやられたように残り僅かになっていた。  少し億劫だが、そろそろ新しいものを求めに行かねばなるまい...  彼には肉に対する、美意識のような独特のこだわりがあった。  自分で見て、触れて、これだという《豚》を一頭丸ごと買い取って、自分の手で絞めて捌くのが彼の流儀だった。  しかし、これがまた大変作業で、まとまった時間と多大な労力が必要だ。  彼は気を取り直したように、豚肉の塊を取り出してまな板に置いた。  脂身の少ない綺麗な赤身に包丁の刃を沈めると、分かたれた肉の切れ間から、花弁が開くように、ぱぁ、と赤身の断面が美しく咲く。  綺麗だ。  その感性は常人には理解し難いものだろう。  産まれたばかりの赤子のように、初めて酸素に触れた肉は紅玉(ルビー)のようにキラキラと光り輝き、次の工程を楽しみにしているようだった。  その美しい赤に、砕けたダイヤを連想させる岩塩と、粉砕されて刺激的な香りを放つ胡椒をまぶして、彼は芸術を仕上げた。  それはきっと、生きていた頃の彼女よりずっとずっと美しいだろう...  ✩.*˚  彼がその美しさに気づいたのは、小学校の三年生位の頃だった。  母親が大きな魚を親戚から貰った。 「どうするのよこれ」と文句を言いながら、母親はまな板に乗り切らない魚と格闘を始めた。  彼は子供の好奇心で、その奮闘する母親の手元を見ていた。  魚は釣ってきたばかりでまだ新しく、レースを思わせる抉り出されたエラや、腹を裂いた時に溢れた臓物は、命を思わせる赤色で煌めいていた。彼は素直にそれが美しいと感じた。  その日の夕飯に振る舞われた刺身や煮物はとても美味しかったと記憶に残っている。  命を頂く事は、とても尊く、美味で、美しい行為だと、彼の心に刻まれた。  魚が届く度、彼は興奮しながら母親の傍らで解体という芸術を鑑賞した。  そうして彼は肉の解体の虜になったのだ。 ✩.*˚ 「ご馳走様」と手を合わせて、命に感謝を捧げると、彼はスマホを取り出して、スケジュールを確認した。  ぎっしりと並んだカレンダーの予定はどれも大切な用事で、先方がいるから動かすのは難しい。  しかし、近々の日付で三日ほど変更が利く箇所があった。彼は迷わずスマホを操作して耳に押し当てた。 『もしもし?』と、電話の向こうで幼さを残した女性の声がした。 「あぁ、こんな時間にすまないね」と柔らかい声で謝罪する彼に、電話の相手は明るい声で答えた。 『いいよ、パパ。こんな時間に珍しいから驚いただけだよ。何かあった?』 「実は急な用事が出来てしまって、帰れなくなったんだ。おじいちゃんたちにもそう伝えてくれないか?」 『え?また仕事?急すぎない?』と娘は驚いていたが、彼が急に用事を入れるのは、娘にとって珍しいことでもなかった。 『まぁ、いいけど...でもちゃんと埋め合わせはしてよね?』と、娘はちゃっかり父親に要求して、少し近況報告のような世間話をすると電話を切った。 「...さて」と呟いて、彼は次のすべきことに取り掛かった。  《豚》を仕入れる業者にアポを取るために、別の番号に電話をかけた。 『もしもぉーし』と受話器の向こうから、間延びする酒焼けした女の声が聞こえた。  いかにも学のなさそうな、品のない女の声は耳障りだったが、《肉》を手に入れるためには彼女の協力が必要だった。 「明日、寄付を届けたいのだけど、いつもの場所にいるかな?」 『えぇ?..明日は休みにするつもりだったのにぃ...』と相手は突然の予定に不満気な様子だったが、「三十万用意します」と伝えると、彼女は手のひらを返すように態度を改めた。不機嫌な声が気持ち悪い猫なで声に変わる。 『分かりましたァ。時間と場所ツイートしとくんで。カフェの時間ならあたしいるからよろしくぅ。お待ちしてまぁーす』  この間延びする声を聞き続けるのは精神的に良くない気がして、用事が済むと早々と電話を切った。  その足で冷蔵庫に向かう。  寂しくなった棚を眺めて、キッチンの香辛料を確認した。  ローズマリーを買い足そうとスマホのメモに残して、その日はもう休むことにした。
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