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✩.*˚
煌びやかな繁華街を抜け、駅前の貸駐車場に車を停めた。
駅前は人がごった返していて、彼の存在など風景の一部として誰の気に留まることもない。
もう桜が散る季節というのに夜の空気は冷たく、彼は洒落たスプリングコートに頼りなさを感じた。
約束の場所に向かうと、駅前の広場に横付けされたキッチンカーが店を広げていた。
目が痛くなるほどけばけばしいハートマークが装飾された、ロゴ入りの赤いキッチンカーの周りには、いくつかのテーブルが置かれており、キッチンカーから伸びた庇の下には姦しい人だかりができていた。
「あー!先生ぇ!」とひときわ大きな声が彼を出迎えた。それはあの電話の向こうで響いていた不愉快な間延びする声だ。
「みんなー!この先生はぁ、あたしたちの活動にいつもご寄付してくれる先生でぇーす!」と、彼女は大げさな身振りを交えて、キッチンカーに集まっていた人たちに彼を紹介した。
彼はそれを煩わしく感じていたが、マスクの下で笑顔を繕って会釈した。
「高橋さん。これ、約束の寄付です。お役立て下さい」と、彼が金の入った封筒を差し出すと、相手はひったくるように受け取って、戦利品のように掲げて金をアピールしていた。
浅ましい…
騒ぎ立てる彼女の背に冷たい視線を送って、彼は改めてあたりを見回した。
その目は獲物を探す猛禽のようだ。
彼には、常人とは違う世界をその目に映していた。
舗装されたアスファルトと洒落たタイルを敷いた広場には、キッチンカーに群がる《豚》が放牧されていた。
辺りをウロウロと目的もなく徘徊する《豚》は、彼の出した《金》という撒き餌に食いつくような視線を送っていた。
金を受け取った《豚》の主は、もう用はないとばかりに彼から興味を失った様子で、取り巻きに向かって熱心な演説を始めた。
《餌》は撒いた。
彼は踵を返すと、車を置いた場所とは反対方向に歩き出した。
車に戻る気はなかった。後で代行業者に取りに行かせる予定だ。
歩き始めた彼の後ろに小さな足音が重なった。
跳ねるような足音は伺うように近づいたり離れたりする。
その足音がひとつだと確信して、おもむろに足を止めた。
振り返った彼の視線の先には、先程の《餌》につられた《豚》が媚びるような視線で彼を見つめている。
成功だ…
「何か用かな?」
彼がそう問いかけると、《豚》は先程彼が撒いた《餌》と同じものを欲しがった。
『自分を好きにしていいから』と…
安い、安い買い物だ。
「着いておいで」と一言告げて、ネオンの光る街を歩いた。
きらびやかな街並みの店に少し立ち寄って少し買い物をさせられたが、それでも肉が手に入るなら安いものだ。
きらびやかなネオンの灯りが目眩しになったのだろう。
彼と《豚》の姿を見咎める人は、その街にはいなかった…
✩.*˚
冷蔵庫に切り分けた肉を仕舞って彼は満足げに観音開きになる仏壇のような扉を閉めた。
そういえば、肉の臭みを消すローズマリーを買い忘れていた…
机の上には彼が《豚》を仕留めて絞めた《トロフィー》が残っている。屠殺場に向かう途中の《豚》が欲しがり、一時的にだが身につけた小さいトップスのブランド物のネックレスが残っている。
土産はこれで良いだろう…
紙袋は潰れてしまったが、渡す相手が娘なら問題はない。
約束の時間を確認して秘密の部屋を後にした。
表の通りでタクシーを拾って、娘と約束した待ち合わせ場所に向かった。今日は久しぶりの娘とのデートだ。
彼が待ち合わせ場所に到着すると、彼の世代が一番わかり易い待ち合わせ場所である犬の銅像の前で、携帯を弄りながら待っている娘の姿があった。
「もう!パパァ、遅いよ!」
「ごめん、ごめん」
頬を膨らませて父親の遅刻を指摘するが、約束の時間は過ぎていない。
このやり取りもいつもの光景だ。
大学生になった娘は彼の元妻に似て美人に成長していた。場所が場所だけに、その姿が懐かしくさえ思える。
「どこにいく?」と訊ねた彼に、娘は「うーん」と悩む素振りを見せた。
「まず映画でしょ?それからご飯食べて、ショッピングしたいかな?もちろんパパの奢りだからね!」
「ははっ!お手柔らかに頼むよ」
上機嫌に笑いながら、彼は出掛けにポケットにねじ込んだ《トロフィー》であるネックレスを確認した。渡すなら店に入る前の方が良いだろう。
「プレゼントだよ」と言って、娘の後ろに回って、小さなトップスのハートの首飾りを娘の首にかけた。
女性なら誰しもが一度は耳にしたであろうブランドの首飾りに娘は歓声をあげた。
『ブゥ!』と、《豚》の鳴く声が聞こえた…
彼は振り返った娘の顔を見て喉を鳴らした。
振り返った娘の顔は、彼が屠殺し続けていた《獲物》の顔になっていた…
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