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椿 1
自宅の最寄り駅から再度タクシーに乗り込み、家の前に着いたのは十二時五分前だった。玄関脇に張られた磨りガラスからは、まだ明かりが漏れている。音がしないように重たい門扉を小さく開けて入ろうとすると、入ってすぐのプランターに植えられたばかりのベゴニアの葉が、足首にカサカサとあたった。静かに鍵を回し玄関扉を閉めると、口の中でただいまと呟き上がり框に腰掛ける。
バタン、とリビングのドアが開く音がした。思わず噛み合わせに力が入る。
「おかえり、椿ちゃん。ご苦労様」
「ただいま、ママ」
靴を脱いで揃えながら、背中越しに玄関まで出てきた母と言葉を交わす。どんなに音を立てずに家に入っても、必ず母にはわかってしまうものだ。俯いているうちに、リビングに戻って欲しいと願う。タクシーの中でメイクは少し直してきたが、母にはきっと、泣いたことくらい気づかれてしまうだろう。既に片付いた玄関だったが、ゆっくりと無駄に他の靴も揃えて時間を稼ぐ。
母は何時でも、父と自分の帰宅が完了しない限り先に寝ない。そして小さい頃から今に至るまで、どんなにその朝喧嘩をしていても必ず出迎えにやって来た。椿の仕事は殆どが定時に終わるが、父の場合は終電より遅い夜も少なくない。大変だねと気遣えば『あら、だってコレが私の仕事だもの』と嬉しそうに答える人だ。
「臨時のミーティングまであるなんて大変ね」
「うん、そうなの、急に頼まれて。本当疲れちゃった」
「あらあら、あ、お風呂の追い炊きするわね」
いそいそと母が風呂場へと去り、ホッと息を付くと、急いで二階の自室に向かう。なるべく早くに風呂へ入ってしまえれば、後は疲れた、と有りのままの顔をしているだけで良い。
鞄を鏡台の脇に置き、カーディガンを脱いでハンガーに掛ける。ベッドカバーの上に倒れこむと、嗅ぎ慣れた柔軟剤の匂いがした。
気が緩んで、また涙が込み上げてくる。
なぜもっと早くに気が付かなかったのだろう。今思えば、おかしい所は沢山あったのだ。
きゅっと涙を止める為に目を瞑って、大袈裟に呼吸を繰り返してみる。
土曜は会えるけど、日曜はフットサルチームがあるからダメだとか、夜に電話をしてもいつも寝ていて出ないとか、会社の携帯しか持っていないとか。痩せた身体ではあったが、色白で腹回りは弛んでいたし、時々酔って深夜のテレビ番組の話をしていた。
今日の昼間の出来事が、また頭の中をフラッシュバックする。
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