椿 1

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椿 1

 業務中に内線で呼ばれて役員室へ向かう途中、エレベーターが六階で止まり、加瀬と上司が乗り込んで来た。加瀬は本社屋横の営業社屋の人間なので、社内で会う機会は滅多にない。チラリと目が合うと、椿は恥ずかしさと軽い緊張で壁側に小さくなった。三人しかいないエレベーターの中で、加瀬は後ろ手に小さく手を振ってくれた。すらりと長身で、男前のサラリーマンがこっそりと自分だけに送る合図。ドラマのような社内恋愛の光景だと頬が熱くなった瞬間、上司が加瀬に言った。  「だろ?そう思うだろ?あり得ないよ。お前のトコの嫁はどうなのよ」  加瀬の手がピタリと止まった。  「あ、ウチですか。ウチもまあ」  「やっぱりそうか。あんな綺麗な嫁でも同じかー」  アハハ、と小さく笑う加瀬の声が今でもハッキリと耳に残る。  頭の中で「よめ」「ヨメ」「米?」と字体がグルグルと勢いよく巡り巡った。確かめるように見た加瀬の左手薬指には、やはり何もなかった。エレベーターは十階で止まって、二人は降りて行ったが、椿は俯いたまま加瀬の背中すら見ることが出来なかった。  まっ白い箱の中で、一月から始まった付き合いが頭の中を駆け巡り、間違い探しが始まった。  独身だとは言わなかったか?  気づけたような場面があったか?  まだ混乱していた夕方頃、『会って話をさせて欲しい』とメールが来た。料理教室の日だったが、選んでいる余裕は無かった。何かの間違いであって欲しい。その一心で、いつもの待ち合わせ場所で彼を待った。  階下から母の声がして、風呂が沸いた知らせが届く。軽く滲んだ涙をティッシュで押さえ、風呂場に向かった。
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