菫玲 1

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菫玲 1

 3時間弱の運転を終え、山裾の町に建つメーカーの工場に着いた。高速を降りる頃、アラームが鳴ったかのように石島が起きる。熟睡後のぼんやりした様子の中年男は気持ちが悪い。寝起きにスンスンと鼻を鳴らすのも反吐が出そうだった。  運転で疲れた目を瞬かせながら、菫玲も準備をして車から降りる。  「あ」  先に降りていた石島が、伸びをしながら車を見て声を出す。  「どうかしましたか」  「ここ、ここ」  回り込んで石島の指す先を見ると、ルーフからドアにかけてネットリと鳥の糞がこびりついていた。  「こーいうのってさ、早く取らないと」  はあ、と生返事をしていると、半笑いの顔でさらに「ね」と言われる。  「五十嵐サン、水持ってるでしょ、それかけたら落ちやすいんじゃないの」  グラリと腹の中で何かが揺れたが、ソウデスネ、と答える。言われるがまま水をかけ、ティッシュで鳥の糞をこすった。  「五十嵐サンみたいな美女でもさあ、鳥の糞を触ったりするんだよネエ」  背中から、石島ののんびりとした声がする。  些細な出来事までも気にしていたら、会社生活は進まない。今から明日の昼に帰社するまで、どうやってやり過ごしても結果は変わらないのだ。だだっ広い駐車場で、なかなか取れない汚れを擦りながら、それよりも早く煙草が吸いたい、と思う。  四時からの会議を終え、製造商品の詳細と調達原料の方向性が大方決まり、出張の目的が達成されたのは八時半を少し過ぎた頃だった。  解散した会議室では若手社員が後片付けに回り、本部長や部長クラスの社員と石島が打ち解けた雰囲気で談笑している。会議は合間に小休憩を挟みながら、大きな問題も無く順調に進んだが、終わるとどっと疲れが押し寄せてきた。期待していた原料を入れて貰える結果は何より嬉しかったが、二か月前に話を貰った当初はコスト面で折り合いが合わず、そこからの多くの根回しが思い出された。事前準備として方々の仕入先メーカーとの交渉や資料の大半を菫玲一人で準備し、課長からも今回の内容については良い経過を踏めた、と評価をもらっていた。これで上半期はかなり加点が付くと見込めた。  「五十嵐さん、お疲れ様でした。スムーズにウチの本部長からもOKが出た   し、やっぱり事前に出して貰ってた大量の見積もりと、仕入先さんへの見   学が良かったです。大変でしたでしょう」  「あ、佐藤さん、こちらこそ本当に有難うございました。原材料については   こちらとしても是非使って頂きたいものだったので嬉しいです。御見積も   りが役に立ったなら何よりでした」  「今日は若手集めてるんで、飲みに行きましょうね!」  「有難うございます、是非」  是非じゃない、と心の中で毒づきながら佐藤にニッコリと礼を述べ、石島と共に会議室を出た。  車内で石島は会議のスムーズな運びにご満悦で、自分の発言を反芻し、時折菫玲に感想を求めた。運転に集中しながら失礼の無いよう簡素な感想だけを述べて返すと、『やっぱりそう思うか』と見開いた目で身を乗り出し、後は勝手に自分の発言についての講釈がラジオのように止めどなく流れ続けた。既にわかりきった内容について延々と語られるのはどうでも良かったが、距離が近くなった石島の口から放たれる異臭が鼻につき、何度も左手首に付けた香水を嗅いで気持ちを落ち着けた。  駅前のビジネスホテルでチェックインを済ませる。並んでエレベーターホールに立ち、階数表示を見上げた。  「五十嵐はどこの部屋?」  「私はレディスフロアです。何か御用がありますか?」  ニコリと笑って逆に聞き返すと、ふうん、とだけ返事が返ってくる。  入社二年目から主に営業サポートの担当になり、昨年度から石島の大口案件も本格的に手伝うようになった。こうした同行出張も慣れたものである。下っ端の菫玲がホテルを手配する為、必ずレディスフロアを持つホテルを選べた。二度目の出張時にうっかり部屋番号を教え、夜中に内線がかかってきた時は死ぬほど悔やんだ。携帯にコールがあった後、更に内線で二回かかってきたが、酒を飲んで爆睡していたことにして、電話には出なかった。部屋まで来るのではないかとヒヤヒヤしたものだ。  最近は多くのビジネスホテルにレディスフロアがあり、部屋もやや広く、同じ値段でも待遇が良かった。部屋にいる時くらいはゆっくりしたい。 エレベーターに乗り込み、先に石島のフロアに着いた。スン、と鼻を鳴らす音が聞こえる。  「では、二十分後にロビーで」  菫玲が『開』ボタンを押しながら言う。大きめのビジネス鞄を肩から下げた石島が一歩を踏み出すとくるりと振り返った。  「あのさあ、部屋に迎えに来てよ。俺ちょっと仕事があるから。没頭してる   と時間忘れるし」  は?と言いそうになるのを堪えた菫玲が言葉の真意を測りかねていると、  「じゃあ」  と言い放ち、澄ました顔でスタスタと廊下を歩いて行ってしまう。  『閉』ボタンを連打し、自分のフロアへ昇る。カードキーを差し込んで部屋に入り、心行くままに小型のキャリーケースを床に投げつけた。  こんな隙間時間に没頭して仕事をするような忙しいリーダーでは、ない。  「あいつ…いっぺん、死ねばいいのに!」  きーーーーーっと全身から声を出して、ベッドにダイブした。今夜も、長い夜になりそうだった。
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