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椿 2
ピ、ピピ、ピピ。電子ロックを開錠して挨拶しながらドアを開けると、すぐ目の前に制服姿の西野が立っていた。
「おはよう、立川さん。珍しい、今日は私より遅いのね」
椿は背中を伸ばし挨拶を返す。
「おはようございます、西野さん」
少し目覚めが悪くて、と小さな声で言い足した。
「そうなの、大丈夫?体調悪いようなら言って。お先ね」
出ていく西野を見送り奥に進むと、方々から朝の挨拶がかけられる。
朝の更衣室は良い香りがして華やかだ。本部などでデスクワークをする女性と椿や西野のように受付勤務の女性には会社から制服が貸与されている。そこかしこで楽しそうな喋り声と共に布地のこすれる音やハンガーの音がする。
ほとんどの女性は黒地に千鳥模様が入ったベストとマーメイド型のスカートを身に着けて出ていくが、椿のロッカーには薄いピンク色の制服がかけられていた。会社の総合受付の制服は事務職と若干異なり、色味が華やかなのだ。
ロッカーの扉に備え付けられた小さな鏡が目に入る。二十七歳よりも、やや老けて見えた。
五月に入り、研修を終えた新人達が各部署に配属され、今年は特に更衣室が大きく若返った。毎年の恒例だが、結婚したり妊娠した先輩社員が五月末で引き継ぎを済ませて退職するパターンがあり、今年はそれが多い為だ。引き継ぎ次第では有給消化を理由にさっさといなくなる者もいるので、実際には五月半ばの今が、目に見えて平均年齢の下がる時期である。
二十七歳は若くもなく、またベテランでもない微妙なゾーンだったが、更衣室では三十を過ぎると『後は皆同じ』といった雰囲気が出来つつあって、五月になると急に年を取った気にさせられる。
着替え終わり、背後にある大きな鏡で力の無い顔を見つめた。さすがに昨晩はメソメソと泣き過ぎた。ティッシュで何度も目を擦ったせいで、寝起きはボクサーのごとく瞼が腫れていた。熟睡出来ずに一時間以上早く目が覚めて助かった。冷却材で目を冷やし、何とかなったようには思う。
昨日はこれでもかと打ちのめされが、風呂の中で気が付いたあることに、とどめに大きな衝撃を受け、涙が止まらなかった。
自分がしていた行為は結局のところ「不倫」だった。それまで自分が軽蔑しきっていた既婚者との関係を自らも持ってしまっていた、という事実。多分、全てを打ち明ければ、母なら「椿ちゃんは何も知らされていなかったんだから、それは不倫とは言わない」と言ってくれるだろう。けれど、加瀬とは始まり方が後ろめたかっただけに、結局終わりに至るまで、母にも高校時代からの友人にも告げず仕舞いだった。不倫を帳消しにしてくれる人は誰もいない。だから泣くしかなかった。
少しでもキチンと見えるように、サテン地のブラウスに付いたボウタイの折り目を指で張りながらキュっと括り、ポーチの中を指で転がしてピンク味の強い口紅を選ぶ。また鏡を見つめると、次は目の下と頬骨の間にラメの入った薄いホワイトをのせた。
これで少し顔が明るくなった。後はいつものように笑顔をキープするだけだ。
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