椿 2

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椿 2

 業務が始まって十一時を過ぎると、朝から続々と来た客足が一時途絶えた。 本社屋の受付嬢は年長の西野、派遣の若い小石川と椿の三人である。  人口大理石で造られた扇形の受付カウンターに、三人が等間隔で座っている。真ん中が西野だ。カウンターは一階ホールの中央に位置しており、背面には石造りの仕切り壁があって、階毎の巨大案内パネルが吊り下げられている。壁の裏側は簡易のショールームやイベント用スペースとして使われ、常に人の出入りがあった。隠れた足元や小さなノートPCが置いてある手元も、覗き込めば見える範囲にあり、少々のことでは気を抜けない。  「すいません、トイレ休憩行ってきます」  小石川が席を立ち、椿も一息ついた。派遣されて半年以上経つが、小石川は小さなカバンを持って頻繁にトイレ休憩に行く。まだまだオンオフが難しいのか、本人の気質の問題か、明るく愛想は良いが落ち着きがない。しかし、バイリンガル枠で採用した小石川は4か国語話せるらしく、実際に外国人の来客の際には重宝している。  ロビーは石が多い造りもあって、足元ばかりが良く冷えた。ガラス張りの正面玄関からは五月らしい陽光が差し込み、窓に沿って置かれたソファでは営業社員と客が打ち合わせや雑談をしている。毎日見る光景だが、不思議とこのロビーで話す彼らは大半が楽しそうに見える。  「立川さん、やっぱり元気無いわね」  西野が、ショートカットの襟足を触りながら声をかけてきた。  「すいません、顔が暗いですか」  「ううん、お客様に失礼がある程では全然無いのよ。いつも隣にいるから、   声のトーンが時々低いなとかそんな程度だけど。立川さん、いつもふわっ   と明るいから」  頬を軽くパチパチと叩きながら、やだなあ、何かな、気を付けます、と笑顔を作る。  「大丈夫なのよ。私が気になって聞いただけだから。   違うなら気にしないで」  「ありがとうございます」  昨年、西野に次いで長く勤務していた派遣社員が辞めてから、急に西野との距離が近くなったように思う。お互いに気が安くなった。それまでは「先輩」という位置づけだけで、かつて怒られた記憶が勝る存在だったが、今はどことなく、もっと身近な、仲間のような感覚が芽生えてきていた。人が抜けて行く組織の中では、本人同士の現実的な共有よりも外部からの環境変化が大きなポイントになるのかもしれない。  西野は既に三十二だ。ベテランである。聞いた話によると代々の受付に三十を過ぎた女性の例は無かったらしい。はっとするほどの美人だから、年齢を理由に受付を外されないのだと専らの噂であり、さらには小石川によれば、いずれか役員の愛人だと言われているらしい。勤務歴半年である小石川の話にどれ程の値打ちがあるのかは定かではないが、実際に受付は役員から用事を頼まれる機会も多く、接待の席に呼ばれもする。あながち嘘とも言い切れなかった。社歴が長い分、重役関係の客先を良く把握しており、数年間の病気や退職による秘書室の人事異動も重なって西野は様々な席で重宝されていた。  「西野さん、この間の接待、大丈夫だったんですか」  「ああ、大阪タナベのメーカーさん?」  「はい。松木社長、かなり西野さんお気に入りなんでしょう?」  お互いに固有名詞の部分は声を小さく絞って会話する。ふふふ、と西野は笑う。  「そうね、お気に入られてるわね。手くらいは繋ぎますけど、それ以上は何   も無いわよ」  「手!」  椿は松木の肥えた体と、テラテラと脂ぎった顔を思い出しゾッとする。  「よく手が握れますね…」  「たかが手じゃない。もちろん手相も見られるけどね、毎回。手相は三か月   毎に変わるらしいわよ。手くらい揉まれても死んだりしないのよ、人間   て」  「私、倒れちゃうかも」  情けない顔でそう言うと、西野は椿に優しく笑いかける。  「立川さんて、ピュアよねー。本当に二十七なの?」  「えー。そんなことないですよ」  「手で倒れるんでしょう?」  「人によりますって」  でもほら、と西野は続ける。  「そういう会話でも、絶対『きもい』とか『あり得ない』とかって語句を使   わないじゃない?そういう言葉の選び方から、心の綺麗さって滲み出ると   思うわ。相手を否定しないっていうか。小石川さんに同じ話したら、百回   くらい『きもい』って連発してたわよ」  悶えながら叫ぶ小石川の様子が思い浮かぶ。あっけらかんとした顔をして辛口トークをするのが小石川の持ち味だから、松木社長の話であれば容赦はなかっただろう。確かに椿の場合『きもい』という言葉は出てこない。何となく、言葉そのものに臆している所がある。その言葉を遠ざけて、自分自身に降りかからないよう予防線を張っているようなものだ。  「でも、倒れちゃうんですよ。失礼に変わりないですよ」  あれ、あそっか?と西野が笑う。
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