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3月1日
普段よりもカラフルに染まった黒板を見つける。ただぼんやりと立ったままで。
大きく「祝 卒業」とピンクのチョークで書かれ、その周りには桜の絵。随分と上手いから、美術部の生徒が書いたのかもしれない。
”ご卒業おめでとうございます”
”お世話になりました”
毎年恒例の、二年生からのメッセージだ。それから小さく卒業生や一年生、思い思いに言葉を残している。
一つ一つを読んでいくと、目頭がじわっと熱くなる。これも毎年のことだ。
すでに五回、こうして卒業生の担任を経験しているのに、変わらない。慣れることはあっても、込み上げる感情は一つずつが違っていて、そして同じように胸を揺らす。
右端に「先生、ありがとうございました」のメッセージ。それに続くように、小さく「ありがとう」「学校生活楽しかったです」と綴られていた。
「こちらこそ、ありがとう。楽しかった」
今は自分しかいない教室に呟く。
綺麗に掃除され、整えられた教室。けれど、ところどころに彼らが出て行った形跡がある。慌てて誰かを追い掛けたのか、廊下側に傾いた椅子。机の上の消えなかった落書き。卒業式が終わってすぐに外したのか、あまり皺のないネクタイが落ちている。普段ネクタイをしていなかった生徒だろうと想像がつく。式典以外ではうるさく注意はしていないから、入学時に購入したままほとんど家で眠っているというネクタイも多い。これはあとで事務室に届けておこう、取りに来るかもしれない。これもきっと、思い出だから。
来年は、また違う生徒たちがこの教室で一年間を過ごす。ここは来年も三年生だ。そして、受け持ちも自分だと決まっていた。
新学年を新しい気持ちでスタートする彼らのために、この黒板は新学期までに綺麗にしなくてはいけない。それは、空き教室となった今、教師の役目だ。光栄であり、寂しくもある、この教室で最初の仕事。
まだ、しばらくはこのままでおいておく。たまに、すでに先輩がいないことを分かりながら、メッセージを書きに来る生徒がいる。何もない教室に鍵は掛けていない。
それを見るのが自分だけで申し訳ないけれど、少しだけ特権だとも思っていた。
「お疲れ様。来年もよろしくな」
教室で、こんなに小さな声を出すなんて、この僅かな空白の期間だけだ。それもまた、特権だと思う。
春はまだやってきたばかりで、一人の教室は肌寒い。肩を竦めながら、今年度の役目を終えた教室を後にした。
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