その後

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その後

 木々に囲まれた閑静な墓地の中を、高級な礼服に身を包んだ壮年の紳士が歩いてくる。彼の名は、ハンス。目的の墓前に立つと、抱えていた豪華な花束を捧げ、風化して薄くなった墓碑銘を指でなぞった。 「博士……お久しぶりです」  この下に眠るのは、遺伝子組み換え研究の権威と讃えられた博士だ。博士は晩年、“金の卵を生むガチョウ”の研究に心血を注いだものの、志半ばで病に倒れた。ハンスは、彼の助手を長年勤めていたのだ。 「見てください、博士」  ハンスは懐から、金色に輝くガチョウの卵を取り出した。ジッと見詰めると、不意に口元を歪める。 「僕が開発した飼料で、今や金の卵を生めるようになりました」  博士が亡くなったのは、もう一昔以上前のこと。残されたハンスは、博士の研究を引継いで……全データを携えて、某国の新興企業「ジャック&ビーンズ社」の主席研究員の座に就いた。  そこで彼は、遂に完璧な「金の卵を生ませる飼料」を開発した。この餌を食べたガチョウは、必ず金の卵を生んだ。100%だ。しかし、この卵は孵らない。殻の中まで金がびっしりと詰まり、ヒナなど存在しないのだ。しかも、その飼料を与え続ける限り、親鳥は一生、金の卵を生み続けた。一羽にかかる飼料代・諸々の総コストに比べて、金の卵の総売上額が遥かに上回った。飼料は爆発的に売れた。改良版として「鳥類汎用版」が世に出ると、世界中の人々はウズラからダチョウまであらゆる鳥を捕獲して、各地に「金の卵生産場」が作られた。「ジャック&ビーンズ社」は、やがて「魚類汎用版」「両生類汎用版」「爬虫類汎用版」の開発にも成功した。  ハンスは、金のガチョウの卵を墓前の花束の横にコトンと置いた。 「こんなもの……もう、子どものオモチャにもなりません」    金相場は暴落、崩壊した。きらきら眩しいだけの鉱物は、さほど耐久性もなく、せいぜい装飾品に加工するくらいしか用途はなかった。希少価値は消え失せ、ありふれた存在に成り下がった。 「でもね、博士……僕は、あなたに感謝しているんです」  あらゆる卵生動物を捕獲して、親世代を「金の卵生産マシーン」に変えてしまった人類は、鳥肉を食べられないことに気づいた。もちろん、魚類も両生類も爬虫類もだ。  人類の食料は、まだ植物全般と哺乳類の乳や肉がある。すぐに食糧危機に陥る訳ではなかったが、それでも人々は飢えた。 『焼き鳥が食べたい』 『クリスマスの七面鳥はどうするの』 『カリフォルニアロールは、寿司じゃない』 『カエルってササミみたいな食感なんですよ』 『やっぱり精力剤はマムシじゃなきゃね』 ――と。  伝統的な食文化、宗教、嗜好……様々な領域で、人々の欲望を満たしてきた食材の一部が、既に絶滅していた。もう手に入らない――それは、絶望を呼んだ。 「あなたは失敗が多かった。失敗の度にガチョウを購入していたら、研究費が嵩んで堪らない。だから、クローン技術で、親世代になるガチョウを作っていましたよね」  そう。研究員ハンスは、やがて親世代が稀少になる世界を予見していた。彼は、密かに自分名義で冷凍施設を建て、大量の受精卵(たまご)の元を保存した。そして、膨大な遺伝子データの記録を持ってジャック&ビーンズ社を退職すると、新たに起業した。 「我が社のクローン食品は、今や莫大な富をもたらしてくれています。まさに、ですよ!」  墓地の静謐な空気を切り裂いて、ハンスの高笑いが響いた。 【了】
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