第三章〜廃れた倉庫(アスナー)

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第三章〜廃れた倉庫(アスナー)

1 名波雅は、夢を見ていた。 深淵の中で、桜の花びらが途切れることなく、まるで踊るように周囲全体に舞っている。 鋼のようにしなやかで細身ながら、女性よりも美艶そのものの雅は、幽艶な光景に見惚れていた。 ぼんやりしている雅だが、少しずつ一つの人影の存在が鮮明なってゆくのを感じていた。 それは幽艶な光景の中で、ゆっくりと振り返る。 桜の渦とともに靡く、細腰まである綾絹のような黒髪、十五才の雅より幼いが、刻まれた甘美な顔立ちはつま先まで洗練されている。 思わず雅は、一瞬のうちに少女に魅縛されてしまい、息を詰まらせて凝視していた。  君は、何度でも僕を簡単に魅縛するーー。 憂いに満ちた黒真珠の瞳は、雅の存在を認めるといつものように優艶に微笑む。  ああ、愛おしい子、誰よりも愛おしい。  僕の片割れーー。 少女に認知された歓喜に、雅の全身全霊に甘くて温かいものがねっとりと、さざ波のように這って広がっていく。 それを深く吟味した雅は、自分の手をまっすぐに伸ばすと、切なくて愛おしい少女へ駆け出す。 刹那、吹雪のような桜の花びらが鮮烈に舞い上がり渦巻く。 雅の目前に勢いを増してさらに舞い上がり、彼の足を止めさせた。 「!?」 それは、慌てる雅の目の前で桜の花びらはいまにも天を衝くような壁となって立ち塞がり、彼を少女から絶望的に阻む。 一瞬のうちに、雅の愛おしい存在は、そのまま花びらの過剰な渦に巻き込まれると、みるみるうちに掻き消されていく。 あっという間に過ぎ去った出来事に、雅はただ呆気となっている。 せっかく再会できたのにーー。 雅は、あんまりな残酷な光景に、今も昔も何も出来ずにいた歯痒い自分に気がついた。 届くことがない、焦がれるほどの激しい想い。 それを容赦なく無惨に切り刻むように、桜の花びらは激しく儚げに舞い散る。  少女は、雅の前に現れない。  愕然とした絶望に襲来された雅は、目尻が火照るのを覚えて自分の顔を両手で覆うと、そのままがくりと力なくして膝を落としたーー。    名波雅の美艶な頬に、一筋の雫が流れ落ちる。 夢を見ていた。 それでも何も覚えていない。 いつもながら、不甲斐ない自分。 雅は、涙を拭いながら自嘲気味に口元を歪めた。 リネンの中から、雅は鋼のようなしなやかな上半身を起こした。 ふと、雅の視線に映るもの。 それは薄暗い室内に浮かび上がる、一粒の雫。 雅は、それに気づき小首を傾げ、美艶な指先でそっと慎重に取った。 それは白米のような小さな粒だった。 うっすらと白銀の光を帯びている。 雅は、美しい柳眉を顰めた。 冷厳な月影を形取った紫黒の双眸で、じっとそれを見据える。 ゆっくりと慎重に顔を近づけると刹那、何とも言えない甘い香りが、雅の鼻に付く。 わけわからなくなるほど美妙で、胸奥で疼く懐かしい香りなのはなぜ? 不可思議に感じた雅は、どうにか思い出そうとした。 だが、それは不意に光を撒き散らす。 一瞬のうちに、雅の手先から消えてしまった。 あんまりにも不可解な出来事。 胸の奥底から痺れるような感触を味わいながら、起きたばっかりで頭の回らない雅は、どうすることもできず呆気としてた。 コンコンッ。 数分後、扉からノックが響き、雅の現実がやってくる。 余韻が醒め上がらない雅の全身には、いつもながら自分のものなのか、他のものなのかわからない萌しを覚えていたーー。 〜手に入れたくても手に届かない。  彼にとっていつもの儚い目醒めは、不可解のまま閉ざされている。  深淵深く他者に関与された頑な封印は、どうあれ今はまだ解けない〜
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