兎と奸物

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杞梓の諫言を聞いていた凱歌はやおら、額に片手を当てた。 表情が隠れ、杞梓からは、醜くゆがめられた口元だけが見えた。いつからこんなに卑屈な笑い方をするようになったのだろう、(わたし)の兎は。 「……それは正しいのだろう、杞梓よ。さながら王のように正しい」 「王も、これから正しくあればよいのです」 「杞梓にはわからない。解法は出ているのに、何度取り組んでも正答が出せない者の気分が。杞梓こそが王になればよかったのに」 「臣めは一度もございません。王になりたいなどと考えたことは。なお、これは再三になりますが、我という一人称は王たる者が使うべきでありません。お改めください」 「杞梓はいつも、我とは違うことを考える。クソ兎、と、咎めてくれる。そこがいいと思っていた。だがどうだ、今や、杞梓の考え方は、振る舞いは、我を、より孤独にする」 「臣は、大王に、王にふさわしくあっていただきたいだけで――」 漆塗りの酒杯が、凱歌の手中で砕けた。 「そうか……今ようやくわかった」 杞梓が顔に飛び散った醪を袖で拭ってから視線を戻すと、凱歌は大口を開けていた。絶望の色をしたその穴の中から、嗚咽のような笑声が立った。 「賢い杞梓は、愚かな我を王にまつり上げ、動じるさまを嗤っているのだな……!」 「大王、言ってよいことと悪いことがあります」 「不愉快なのはこちらも同じだ! 出て行け。次に我の前に現れたら、首を落とす」 「……王よ、かつて、臣を一人にしないと約束してださったではありませんか。それなのにずっと後宮に籠って」 「理屈が通らなければ情に訴える。杞梓は実に賢い。我もそうであればよかった」 「責めているのではありません王よ。臣が一人になると――」 「我は王なんて名ではない!」 「お願いです、聞いてください」 「うんざりだ杞梓。何もかもが」 凱歌はよろけながら立ち上がると、席の後ろの壁に飾られた長剣を抜いた。 「我の剣の腕は知っていよう、二度と我に顔を見せるな!」 酒に深く溺れた凱歌の剣先は錆びており、あと少しでも杞梓が何か言葉をかけようものなら、折れてしまいそうだった。 杞梓は、その場で簪を抜いて冠を落とし、野に下った。 凱歌が国を開いてから五年が過ぎていた。
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