第04話:ささやかな願い

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第04話:ささやかな願い

 水平線で緩やかな弧を描いていた太陽の輪郭は、その弧の長さを徐々に伸ばしていく。潮風は東から西へ、時間は過去から未来へ、ゆっくりと流れていく。太陽は、いつの間にか、高く(あお)い空に真円を描くと、南へ向けてゆっくりと進み始めている。  (みお)と一樹は再び砂浜に座り、軌道エレベーターをじっと見つめていた。不規則にうねる海面が作り出す波の群れは、オレレビーチの白い砂浜を休むことなく洗いつづけ、この時の流れの中にいる事が許されるのは、(みお)と一樹だけであるかのような、そんな特別で、静謐(せいひつ)な、純度の高い時間が、ゆったりと流れては消えていった。  (みお)はこの空気に特別な何かを感じながら、一樹の肩にもたれかかり、そのぬくもりを楽しんでいたものの、ふと、なにかを思い出したかのように、突然、口を開いた。 「そうそう、一樹にこれを渡しておかないと」  (みお)は、ハンドバッグからスターカットされたクリスタルメモリーと小さな紙袋を取り出すと、一樹にそれを手渡した。 「(みお)、これは?」 「これは私の最新の記憶データ。宇宙船の会話用AIに()()データも学習させておいてね」  (みお)はそう言って、肩で一樹の体を軽くつついてみせる。一樹はそんな(みお)の仕草に照れくささを感じながら、そのクリスタルメモリーを受け取ると、まるで高価な宝石を取り扱うかのような慎重さで、それをジャケットのポケットにしまいこんだ。 「今回の宇宙航行で地球と交信できるのは8回だけ。しかも通信ラグが(ひど)すぎて地球とリアルタイムで交信ができないから、俺がリアルタイムで会話できるのはAIだけだ。AIとはいえ最新データの(みお)と話せるのは嬉しいよ。ありがとう」  一樹の素直な言葉に、(みお)の胸の鼓動が一気に高鳴る。 「で、でも、それ、昨日の夜までのデータなのよね」  (みお)は、そういって、右手の人差し指を自分の唇まで持っていき、翠玉色(エメラルドグリーン)の海から、(あお)い空に視線を移した。 「あぁ、今日、(みお)が遅刻してきた記憶データはないのか。宇宙船でAIをからかうネタが1つ減ってしまったな」  そう言って笑う一樹の横顔をみつめていた(みお)は、その笑顔で自分の心が幸福感で満たされていくことを実感する。 「ところで、(みお)。この小さな紙袋は何なんだ? 開けていいのか?」  一樹が(みお)にそう尋ねると、(みお)は黙って(うなず)いた。  一樹が紙袋を開けると、そこには小さな御守りが入っていた。その御守りは、お世辞にも出来がいいと言えるものではなかったが、一樹はそれが(みお)の手作りであることに一瞬で気がついた。なぜなら()()不揃(ふぞろ)いな縫い目が、裁縫が苦手な(みお)の苦労と、それにかけられた時間と思いを雄弁に語りかけていたからだ。 「ありがとう、(みお)」  一樹は、万感の思いをこめ、(みお)にそう言葉を伝えると、手にしたお守りを、まるで赤子を扱うかのような丁寧さで慎重に自分の首からかけると、ゆっくりとそれを胸元にしまいこんだ。  ふたたび、二人の間を沈黙が覆う。しかし、一樹と(みお)は、もはや空気を振るわせ通じ合う、言葉というものを必要としていなかった。ただ心を振るわせ、共鳴しあうことで通じ合う、心のやり取りだけで充分であった。  (みお)は、この時間が、この瞬間が、もっとも尊い何かであることを理解していた。しかし、このささやかな何かでさえ、これからしばらくお預けとなる。そう考えただけで、(みお)は、自分の心が冷えきった何かによって握り潰されてしまいそうな、そんな錯覚を覚えていた。 「俺、やっぱり(みお)に会えなくなるのは寂しいよ。(みお)の脳内データを学習しているとはいえ、AI は所詮(しょせん)AIでしかない。俺はいつでも(みお)と一緒にいたいし、(みお)に会えなくなるのはとてつもなく寂しい」  一樹はそう言って沈黙を破る。(みお)は、一樹のその言葉を、押し黙って、じっと下をむいて聞いていた。一樹に言われるまでもない。私だって寂しい。しかし、(みお)は、その言葉が唇からこぼれ落ちそうになるのを必死に抑え込んだ。 「なに、心にもないこといってるの」  (みお)は、声だけは明るく、しかし、顔を上げられるわけもなく、隣に座る一樹にふたたびもたれかかる。一樹は、(みお)の気持ちを一樹なりに察知し、押し黙っている。そして、(みお)は、なにも言わずに気を使ってくれる、そんな一樹の気持ちをとても尊く感じていた。 「(みお)、俺、そろそろ行かないと」  一樹は、右手のニューラルウォッチを見ながら(みお)に寂しそうにそう告げる。一樹のニューラルウォッチは、無情にも今の時間が午前7時であることを告げていた。 「そうね」  (みお)は、スカートについた砂をパンパンと軽くはたくと、ゆっくり立ち上がって、一樹にむかって背を向けた。 「これから無菌室に行くのよね。宇宙に病原菌を持っていかないためとはいえ、面倒なものね」  その声を聞いた一樹も、(みお)に続いて立ち上がり、ズボンについた砂を払うと、さみしそうな声で話す(みお)に優しく語りかけた。 「仕方がないさ、完璧な健康管理が求められる宇宙航行に、病原菌や他の微生物、細菌を連れていくわけにはいかないからな」  一樹はそう言って、優しく(みお)を背中から抱きしめる。(みお)はそのぬくもりを、自分の首に絡みつく一樹の両腕のぬくもりを、自分の右手で確かめると、その場に(たたず)んで、この瞬間が永遠に続くことを心から願っていた。  しかし、(みお)のささやかな願いは(かな)うことはなく、時間はただ残酷に、秒針を進めるだけであった。しばらくの後、一樹は、口惜しそうに(みお)の首に絡めていた両腕をそっと離すと、その右手で(みお)の髪を優しくなでる。 「科学の進歩というものは本当にありがたいな、(みお)」  急にそんなことを言いだす一樹を不思議に思った(みお)は、思わず振り返り、一樹の瞳の中に自らの姿を映す。そして一樹の瞳には、宇宙飛行士としての成功を喜ぶ気持ちと、恋人として一樹に星屑の海に旅立ってほしくないという気持ちが入り混じった、複雑な笑顔を(たた)えた(みお)が映し出されていた。 「21世紀初頭は、出航の一週間前から無菌室に入らなければならなかったんだ。でも今は、科学の進歩のおかげでギリギリまで(みお)に会うことができる。科学の進歩が、俺たちにこんなかけがえのない時間を与えてくれたんだ」  一樹はそう言って(みお)の頬を優しくなでると、(みお)は、自分の顔が一瞬で朱色に染まったことを理解した。しかし、(みお)は、その顔を見られたくない一心ですぐに下をむくと、その右手でベルト回りにある一樹のシャツを軽くひっぱってみせる。 「でも、宇宙から帰ってきた宇宙船の中は細菌だらけになっちゃうのに。本当にそんなことしなくちゃダメなのかな」  そんな(みお)の疑問に一樹は、視線を積乱雲が立ち並ぶ(あお)い空に向け、優しい声でこう答えた。 「人間は約37兆個の細胞でできていて、その細胞には約100兆個の微生物が付着している。つまり人間は大量の微生物を飼っているというわけだ。今さら体の表面だけ無菌状態にしたところで、その効果は知れてるかもしれないな」  (みお)の質問に対しては直接的な表現で、(みお)の気持ちに対しては婉曲(えんきょく)的な表現で答えてくれる一樹の言葉に、(みお)は深い優しさを感じると、(みお)は自分の心が、このまま永遠に一樹に捕らわれたままであろうということを再認識した。 「いいじゃない、微生物。微生物がいるから、宇宙に出ても一樹は一人じゃないってことなんだから。でも私は寂しいな、もし許されるのなら、私もあなたと一緒に星屑の海を旅してみたかった、だから」  (みお)はそういって一樹の後頭部に両手を添えて、一樹の顔を自分の顔に引き寄せると、そっと、自分の唇を一樹の唇に重ねてみせた。 「だから、せめて、私の微生物だけでも、宇宙に連れていってね」  そう言って静かに笑う(みお)に対し、一樹は「あぁ、わかった」と短く答え、ゆっくりと(うなず)くのであった。
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