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第05話:澪と柚希
午前8時15分。澪は、自分が自由にできる時間のすべてを一樹につぎ込んだ反動で自宅に戻ることができず、そのままMCCに行かざる得ない状況に陥っていた。
自業自得といえなくもなかったが、これも1秒でも長く恋人と一緒にいたいという気持ちの表れであり、仕方がないことでもあった。しかし、あいにく地球の時間の流れというものは一定で、澪にひと時の余裕を与えるため、都合よくゆっくり時を刻んでくれるものではなかった。
澪が慌てて軌道エレベーターの最下階にあるMCCの更衣室に入ると、そこにはセミロングで栗色の髪を持つ、黒い瞳の柔和な顔つきの女性が、ロッカーに備えつけられた鏡の前で前髪を整えていた。
「おはよう、柚希」
澪は、同僚であり、親友でもある如月 柚希にそう声をかけると、柚希も反射的に「おはよう」と澪に声をかける。
「澪がこんな時間に来るなんて珍しい、なにかトラブルでもあったの?」
柚希は、心配そうな口調で澪にそう話しかけるも、澪の姿を一目見るなり、すぐに安堵の表情を浮かべる。
「そっか、ちゃんと一樹さんが地球から離れる前に会ってきたんだ」
柚希が思わずそう呟くと、それを聞いた澪の顔色が急変する。
「ちょっと、なんで柚希がそれを知っているのよ」
澪はそう言うと、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして、柚希に詰め寄った。しかし澪以上に驚いた表情を見せたのは柚希であった。
「いや、だって、そんな気合の入った服で出社してくれば、誰だって気がつくって、私は悪くない、悪くない」
柚希は、澪の取り乱した態度に虚を突かれると、「まぁまぁ」と言いながら手を肩に置き、澪を落ち着かせようと躍起になっていた。しかし澪の顔から紅色が薄れる気配はない。
「そうそう、澪、仕事が終わったら家にこない? 一樹さんの宇宙への出航祝いということで」
たまらず柚希がそう言って話をそらすと、澪ははっと我に返る。なぜなら澪は、柚希のこの誘いが、しばらく地球で1人で過ごさなくてはならない澪を気遣ったものであることに気がついたからだ。
澪は、この柚希の優しさに触れ、自分の心がじんわり温かくなっていくのを感じていたが、一方、気がかりなこともあるにはあった。
「ありがたい話ではあるんだけれど、でも、柚希のところ、新婚でしょ? 悪いわよ」
澪はすまなさそうにそう告げたものの、柚希は気にする素振りを全く見せない。
「なに言ってるの? 澪。新婚といっても、2人でいるだけだし、なにかと寂しいものなの。澪だったらいつでも大歓迎よ!」
澪の心配をよそに柚希はそう笑って答えたものの、澪は、柚希が、夫の柊をどれだけ愛しているかを知っていたし、柚希が2人きりで過ごす新婚生活をどれだけ大切にしているかも知っていた。だからこそ澪は、気軽に柚希の善意に甘えていいのか判断がつかなかったのだ。
「でも、柊さん、嫌な顔しない?」
そう言って澪は柚希に最後の確認をする。しかし柚希はあっけからんとしたもので、笑顔でこう答えてみせる。
「なに言ってんの、澪。あれだけ4人で一緒に遊んでおいて、いまさら遠慮することないじゃない。じゃ、これで決まりでいい?」
そう明るく言う柚希の言葉に、澪は黙って頷いてみせた。
更衣室の外から巡回用ドローンの規則的な羽音とヤブヒバリの不規則な鳴き声が聞こえてくる。柚希はロッカーに備え付けられた鏡をみながらリップを唇に押しつけている。そして澪は、時間がないことも忘れ、自分のロッカーの扉の内側に貼られている一樹のフォトムービーをじっと見つめていた。
どれくらいの時間が流れたのであろうか? いや刹那の沈黙であったのであろうか? その沈黙の時間は、職場に出る準備を整えた柚希の軽い言葉によって中断される。
「一樹さん、いよいよ出発だね」
柚希のその言葉に澪は小さく頷いた。
「澪、本当にこれでよかったの?」
「よかったに決まってるじゃない。一樹の夢が叶うんだから」
澪は、そう言って満面の笑みを浮かべてみせたが、柚希はその笑顔の片隅に表れた寂しさが隠されていることを見逃さなかった。
「そうね、亜光速宇宙船に乗って宇宙に行くことは一樹さんの夢だったものね。そして澪は、その夢を叶えるために一生懸命だったものね。亜光速エンジン、マイクロラティスの改良による大幅な軽量化と剛性向上、そして、一樹さんの心のケア。このすべてがあったからこそ、一樹さんは今日という日を迎える事ができた。素晴らしいことじゃない。澪は胸を張っていいだけのことをした、私はそう思ってるよ」
澪は、そんな柚希の言葉に黙って頷いてみせたが、そこから顔を上げることができなかった。その様子をみた柚希は、こんな言葉ではかたずけられない何かが澪の心に残っていることを、理屈ではなく感覚で理解した。
「じゃあ、澪。私、先に行ってるから、落ち着いたら上がってきて。一樹さんが安心して宇宙に旅立てるように私たちも頑張らないとね! さぁ、今日も忙しくなるぞ!」
柚希は、明るく、そう澪に語りかけると、澪の顔を一切見ることなく、澪の肩を軽くぽんと叩いて、更衣室から出ていった。
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