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第06話:旅立ちの瞬間(とき)
軌道エレベーター最上階の宇宙港では、今、まさに、宇宙船アナクティシの進水式のメインイベントが行われようとしていた。勇敢な船乗りが新たな海路を切り拓いた大航海時代の風習にのっとり、これから人類が切り拓く新たな宇宙航路に思いをこめて、1本のシャンパンが宇宙船に向かって飛んでいく。それは地球の自転のようにゆっくり回転して宙を舞い、やがて宇宙船アナクティシの船体にぶつかると、高い破砕音と共に球状の飛沫を上げた。
その光景を見守っていた式典参加者は、万雷の拍手を宇宙船に送る。軌道エレベーター最上階の宇宙港に集まる人々は、今、まさに、この歴史的偉業へと向かう一人の英雄を送り出そうとしていた。
蒼い空と漆黒の宇宙の境界線カーマンラインに、太陽がその姿を地球の影に移そうとしているそんな時、軌道エレベーター最下階のMCCでは、そんな華やかさとは無縁な、質素で、地味で、堅実な作業がエンジニアによって積み重ねられていた。そしてそれはMCCにいる澪と柚希も同様で、信じられないほどの激務に追われていた。
前日までカンペキだと思って積み重ねてきた様々な準備も、いざ当日になると些細な事が気になって仕方がない。澪と柚希は、そんな終わりのない確認作業を、99.99%を100%に近づける作業を、ただ黙々と続けていた。
「ごめん、柚希。ちょっと私、席を外すね。あと頼まれてた航路上の危機管理、再計算しておいたから確認をお願い」
澪がそういうと、柚希は黙って右手を上げて応えてみせた。その仕草に澪も右手を上げて応えると、澪は大きなため息をついてMCCを出てVR休憩室に向かう。
「こんなにチェック漏れがあったなんて……、私って、こんなに忘れっぽかったかなぁ?」
澪はそんな独り言をいいながら右手で頭をかくと、今日、自分が再チェックした項目を思い出し、昨日までの自分に反省を促した。
「澪くんじゃないか、どうしたんだい?」
澪が、ホログラムディスプレイに幻想的な湖が映し出されたVR休憩室に入ると、そこには、長身で、澪と同じ白衣姿で短髪の男性が立っていた。
「あれ、柊さん?」
「澪くん、忙しそうだね」
「そりゃ忙しいですよ。発射予定時刻まであと30分もないですからね。もうバタバタです」
澪は、そう言って、小さくため息をついた。
「そういえば、すごい発見をしたんだって? 柚希から聞いたよ。ダークマターの中から新しい素粒子を見つけたらしいね」
「あぁ、ミオニウムの事ですか?」
「そう、それミオニウム。人間以外の生物には存在せず、人間にしか存在しない、虚ろで、存在が安定しない謎の素粒子ミオニウム。亜光速エンジンの論文といい、さすが首席卒業。SDHRの誇りだって、柚希がよく自慢しているよ」
「何言ってるんですか、そういう柚希だって、ニューラルグラスの原理となった電子情報データの脳内転写技術とか、脳内データの電子化技術とか、脳科学者として、医学博士として、すごいじゃないですか。柚希は私が持っていない才能をたくさん持っている、私の自慢の親友ですよ」
澪は、本人の前では決して言わないようにしている本音を、柚希の夫に素直にぶつけてみせる。
「その通りだよ、澪くん。俺は、澪くんや、柚希みたいな才女に囲まれ、ほんと肩身がせまいんだよ」
柊はそう謙遜してみせたが、澪は心の中で、柊さんだって、クローン医療技術の研究者でしょ? それだって充分すごいのに、と心の中で呟いた。
「そうそう柊さん。今日は如月家へのご招待ありがとうございます」
澪は、ニューラルグラスで注文しておいたバイオマスタンブラーに入ったコーヒー2本を給仕用ロボットから受け取ると、そのうち1本を柊に手渡した。
「あぁ、その件は柚希から聞いてるよ。私は、今日早く上がるから、澪くんと柚希のために、とっておきの料理を作っておくよ」
「大丈夫ですか? あの失敗したビーフストロガノフとかだったら、私は食べませんよ」
「ハハ、今度は食べてもらえるように頑張るよ。でも君は、こんなところで、こんな話をしている暇はないはずだぞ。そろそろMCCに戻らないとまずいんじゃないか?」
我に返った澪は「では、今日の夕食楽しみにしてますからね」と柊に伝えると、バイオマスタンブラーを片手にMCCへと急いだ。
「MCC、聞こえるか?」
澪が戻ると、MCC内は、様々な計器の数字を確認する声と、船内からその指示に答える一樹の声で満たされていた。
「あぁ、こちらは異常なし。そちらはどうだ? 一樹」
「こちら宇宙船アナクティシ、こちらも異常なし。オールクリアだ。これからアルファケンタウリに向けて航路をとる。なお、今回の任務はアルファケンタウリに至る予定航路のデータ収集、及び、宇宙の航路図作成、往復10日間の旅路となる。MCCからの通信は随時受け付けるが、エネルギー節約のため、こちらからの連絡は原則1日1度の定期連絡のみとする」
「オーライ、一樹。こちらもすべて問題ない。これが今日、最後の通信になるが、言い忘れたことはないか?」
管制官のその言葉に一樹は小さく頷き、こう続けた。
「澪は、そこにいるか?」
「あぁ、澪くんなら、ここにいる」
そう管制官が一樹に伝えるより早く、一樹はMCC全体に届くような大きな声でこう告げた。
「澪、俺は誰よりも澪のことを愛している。だから、俺がこの旅から帰ってきたら、俺と結婚してくれないか?」
それは、MCCにいるエンジニア全員に聞かれているにも拘わらず、そんなことお構いなしの、一樹のすべての気持ちをぶつけたプロポーズであった。そしてそれは、澪がずっと待って、待って、待ち焦がれた一言でもあった。
「まったく、私が顔を赤くして何も返事ができないと思ったでしょう! 一樹。でも、残念でした、ちゃんと答えてあげる。答えは『イエス』、『イエス』に決まってるじゃない」
澪は、一樹に負けないくらいの大きな声で一樹のプロポーズにそう答えると、さらに言葉を続けた。
「私は浮気をしないで待ってるから、一樹は必ず無事で地球に帰ってきてよ。あと、道中、魅力的な宇宙人に出会ったとしても、浮気とかするんじゃないぞ!」
澪が最高の笑顔で最後の一言を伝えると、一樹は満面の笑みを浮かべ大きく頷いて、すべての通信を切った。そして、その瞬間、柚希は澪を背中からぎゅっと強く抱きしめると、澪の瞳からとめどなく涙が頷れだした。
宇宙港を映すMCCのホログラムディスプレイは、宇宙船アナクティシの進路を示す白い誘導灯が宇宙の虚空に輝いていくさまを映し出していた。
あと数分の後、亜光速宇宙船アナクティシは、星屑の海に旅立つ。そして、その瞬間から、一樹の10日間という孤独な宇宙の旅がはじまり、澪の10年間という一樹のいない時間の旅がはじまるのだ。
しかし澪は、これから始まる10年という旅路は、決して孤独なものにならないことを理解していた。なぜなら澪には柊と柚希の夫妻がいるし、なにより一樹が澪に残していったかけがえのない生命があるのだから。
「だから、私は大丈夫」
澪は心の中でそう強く誓うと、そっと自分のお腹に両手をあてた。
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