憧れの人

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憧れの人

5時半 「タラララン、ラララン・・・」 目覚まし時計が朝を告げる。 私はまぶたを閉じたまま布団から手だけを伸ばし、 スイッチを押して音楽を止める。 冬の朝。 部屋はファンヒーターですでに暖まってはいるものの、 太陽がまだ顔を出していない外は、 夜が開けきっておらず、 空の色は薄ぼんやりとしている。 こんな朝はいつまでも布団にうずもれていたく、 ついつい「あと5分」と 目覚まし時計のスヌーズ機能を当てにしてまた寝入ってしまう。 けれども今朝は、 思い切って眠い目をこすり 布団を跳ね上げた。 今日は木村先輩との放送当番の日だ。 着替えをして窓を開ける。 深呼吸をすると、 朝のひんやりとした空気が 体をきりりとさせてくれる。 ハアーっと吐く息が白い。 「さぁ、勉強しよう。 今度のテストは、物理頑張らないと…。」 私は夜深しが苦手なので、 勉強はいつも朝することにしている。 数学や社会、国語はまあまあなのだけれど、どうも理科が苦手。 特に物理。 でも赤点を取るわけにはいかないから、 なんとかしなければいけない。 〈木村先輩に教えてもらえればいいんだけど、 そんなことお願いする勇気はないし…。 そういえば、 最近入部した金本先輩は、 東京の高校からの転入で、 数学がすごくできる人だって 誰かが言ってたけど、 数学が得意なら、 物理も得意だわよね、きっと…。 金本先輩…、 素敵だけど、ちょっと近寄りがたい感じ…〉 「そんなこと考えてたってしょうがないわ。早く始めよう…」 一時間ほど勉強した後、 私はいつもより少し早めに切り上げると食卓へ下りていった。 「おはよう栞(しおり)。 今日は早いのね。」 「お父さん、お母さん、 おはようございます。 今日は放送当番だから、 早めに行って準備しないといけないの。」 「あら、そう。 もうお弁当はできているからいつでもでかけられるわよ。」 「ありがとう。」 朝食を食べながら お母さんが私の顔をじっと見る。 「それにしても、今日はずいぶん機嫌がいいわね。 何か他にいいことがあるんじゃない?」 「そう?そんなふうに見える? でも…それはお母さんにも、ひ・み・つ 私ももう高校生だもの、 秘密の一つくらいはあってもいいでしょ。 別に悪いことをしているわけじゃないから心配しないで。 ごちそうさまでした。 行ってきます。」 家を出ると、バス停まで走った。 走らなくても間に合う時間だったけれど、 なんだか体が勝手に動いてしまう。 〈早くバスが来ないかな。…〉 学校へ着くとカバンを持ったまま職員室へ行き鍵を借りた。 放送室のドアを開ける。 まだ暖房のついていない部屋は寒い。 はーっと息で手を温めながらカーテンを開け、暖房のスイッチを付ける。 機材を点検し、 今日使うCDを出すと準備OK。 〈よし、と。これでいいわよね。〉 鍵を取りドアの方へ振り向いたその時、 木村先輩が久保田先輩と一緒に 放送室へ入ってきた。 「お…おはようございます。」 「あ、おはよう。早いね。 もう鍵を借りに来たというから 誰かと思ったら、栞さんだったのか。 もう準備は終わったの?」 「はい、機材も一応チェックしました。 大丈夫だと思います。」 「そう、ありがとう。 後は僕達がもう一度確認しておくよ。 来週の準備もあるし、 鍵は僕が返しておくから。」 「はい。では、今日よろしくお願いします。失礼します。」 私は木村先輩に鍵を渡し一礼すると 放送室を後にした。 〈あーびっくりした。 でも、ああやって、 木村先輩は毎朝鍵を開けているんだものね。 来たって不思議はないんだわ。 ドアが開いて木村先輩の顔が見えたときは、手が震えて鍵、落としそうだった…。〉 栞が行ってしまうと、 久保田義雄は作業を始めた木村陽大 (ひなた)に近づき耳元でささやいた。 「おい、陽大。 あの子お前に惚れてるなぁ。 あの尊敬の眼差し…、 ただ事じゃないぞ。気をつけろ。」 すると陽大は義雄の方に向き直って 「はぁ?栞さんが? あの子は真面目で、 そんな浮ついた子じゃないよ。」 「真面目な人間は恋をしないのか? そんなことないだろ。 それに、 人を好きになるという気持ちは 純粋で神聖なものだ。そうだろ?」 「それは、まあそうだが、 僕とあの子は単なる先輩後輩だよ。 栞さんは先輩としての僕を立ててくれているだけさ。」 そう言うと、 陽大は休めていた手をまた動かし始めた。 「いや、お前と俺を見る目は全然違う。 乙女にとって『尊敬』と『愛情』は 同義語だからな。 むやみに親切にして勘違いさせたら罪だぞ。 だから気をつけろといったのさ。 せめて、“栞さん”は止めて 佐藤さんにしたら? まあ、佐藤は何人もいてややこしいから 名前を呼んでんのは分かってるけどさ。」 「僕は部長として後輩に指導しているだけさ。 それ以上でもそれ以下でもないよ。 それもだめだとなると…、 どうすればいいの? おまえ、 しゃべってばかりいないでやれよ。」 陽大は手を休ませずに言った。 「まーね、それがお前の部長としてのお役目だもんなぁ。仕方ないか。 気をつけたところで好きになるものはなるんだしね。 さ、さっさとやっちまおうぜ。 授業が始まっちまう。」 慌てて作業を始めた義雄を陽大はチラッと見て、ふと苦笑いをした。 〈あの栞さんが?まさか。 それより…〉 陽大は千田有美と金本淳が気になっていた。 ふたりで部活をサボって以来、 なんとなく一緒にいるのが目に付く。 有美と陽大は、 家も近く、 幼稚園に入る前からの友人だ。 父親同士が親友だったから、 家族ぐるみの付き合いでもある。 有美が陽大によそよそしくなったというわけではないが、 有美と自分との距離が少しづつ離れていっているような、 有美と自分との間に目に見えない壁ができつつあるようなそんな気がしていた。 チャイムがなり午前の授業が終わった。 お弁当と放送原稿を持つと、 私は急ぎ足で放送室へと向かった。 「失礼します。」 ドアを開けると思ったとおりすでに 木村先輩が来ていて、 一曲目のCDをプレーヤーにセットしていた。 「やあ、こんにちは。気分はどう? 緊張しないで、リラックスしてやろうね。 じゃあ、最終確認するよ。 初め栞さんがここまで話して、 曲紹介をして音楽が2曲入る。 その後僕に交代して、終わりまで。 これでいいよね。」 「はい、よろしくお願いします。」 「そろそろ時間だね、始めようか。」 「皆さんこんにちは。 お昼の校内放送の時間です。 今日は、私、佐藤栞と木村陽大でお送りいたします。 日に日に寒さが増してきています。 風邪などひいていませんか? もしかして風邪を引いてしまっていたとしても、 あなたの心まで寒くはありませんよね。 あなたの胸には、あなたの心を暖かくしてくれる誰かがいてくれる、そうだと思うからです。 その人はあなたのご両親でしょうか。 それとも友人、 あるいは想いを寄せる人でしょうか。 もしあなたが誰かに恋をしているとしたら、 その想いはその人に届いているでしょうか。 その人もあなたのことを想っていてくれるのであれば、 たとえ外は凍てつくような寒さであっても あなたの心はまるで春の野にいるように暖かなことでしょう。 でも、もしあなたの想いがあなただけのものだとしたら、 それは悲しい片思いでしょうか。 私はそうは思いません。 確かに、その人と誰かが微笑みあっているのを見れば切ない思いに駆られるかもしれません。 「私に向かって微笑んでくれればいいのに。」と羨む気持ちにもなるでしょう。 それなら、その人を好きになる前の、その人に出会う前の自分に戻りたいですか? そんなことはありませんよね。 その人を想うだけで胸が高鳴り、 その人の笑顔を見ただけで心が温まる。 その人の姿をちらりと見ただけで一日中元気になってしまう。 そんなあなたは、 その人を好きになる前より ずっときっと輝いて素敵な人になっているはずだからです。 たとえその思いが叶わなかったとしても、 決して自分を貶(おとし)めないでください。 結果が出なかったとしても、 それまでの努力が無駄ではないように、 あなたの恋は、あなたの心を高め磨いてくれているはずだからです。 私も今、恋をしています。 この想いを大切にしていきたいと思っています。 あなたも今の気持ちをどうぞ大切にしていってください。 では、ここで音楽をお届けいたします。 今日は合唱曲を2曲。 『グリーンスリーブス』 『春に』です。 🎶 音楽をお送りしました。 ここからは、木村陽大がお送りいたします。 これから冬という季節に、 春にまつわる曲をお届けするのはちょっと変だとお思いですか? 冬は雪が全てを白く覆って、 とても美しい季節です。 しかし、同時に辛く厳しい季節でもあります。 木々もまるで死んだように葉を落とし、 しんと静まり返っています。 一方春は、 花々が咲き乱れ、 暖かさが心まで華やいだ気分にさせてくれます。 希望溢れる季節です。 でも、そう感じることができるのも、厳しい寒さを乗り越えてきたからこそではないでしょうか。 今何かで苦労しているあなた。 辛い恋をしている君。 でも、その苦労はいつか必ず報われる時がくるのです。 冬は必ず春となるからです。 希望と命の息吹の溢れる春を思いながら、 この冬も楽しく乗り切っていきましょう。 今日の担当は、 私、木村陽大と佐藤栞でした。 それではまた来週。」 「お疲れ様!」 「お疲れ様でした。」 「さ、お昼ごはん食べよう。 お腹すいただろう。 栞さんは、いつも当番の時食べないでやってたの?」 「はい。緊張してしまってだめなんです。 話すの苦手だから。…」 「そうなんだ。それなのになんで放送部に入ったの?」 「え、それは…」 まさか木村先輩がいるからとはいえないし、私は困って口ごもった。 「別に詮索しているわけじゃないから、無理に言わなくてもいいよ。 ただ、他にもしゃべるのが嫌いなくせに部にいる人間がいたからさ、どうしてなのかなと思って。 中学のときは、何の部活をしていたの?」 まさか、理由が違うにせよ、 私と同じ様に金本先輩が入部したのも木村先輩がいるからとは、 私は知る由もなかった。 「合唱部です。」 「あぁ、だから今日の曲、合唱曲なんだ。」 「はい、2曲とも私の大好きな曲です。」 「僕も別に話すのが好きでやってるわけではないからね。 どちらかというと作るのが好きかな。 自分のお気に入りの曲を皆に聴いてもらったりとかね。 今日の栞さんのように。 今日の放送も、 聴いてくれた人の中でひとりでも元気になってくれたらいいよね。 そういうのが僕のやりがいかな。 今日の内容は良かったと思うよ。 そろそろ年明けくらいから、 一年生を中心にしたローテーションにしようか。 来年度は君達が部を引っ張ってゆくんだからね。 栞さん、部長になったらどう?」 「とんでもない! 私は自分のことで手一杯で、 とても皆を引っ張ってゆくことなんてできません。 部長には寺山君がいいと思います。 彼なら元気がいいし、皆がまとまると思います。」 「そうか、寺山君ね。 ちょっとおちゃらけたところがあって心配だけど、栞さんが側でサポートしてくれればちょうどいいかな。 ところで、 ちょっと立ち入ったことを聞くけど、 栞さんはどうして自分の気持ちを相手の人に伝えないの? 栞さんのような子に想われていることを知れば、相手も心が動くと思うんだけどな。」 「それは…、私、知っているんです。 “彼”には好きな人がいることを。 “彼”がその人を見つめる眼差しはとても優しいんです。 その人のすべてを包み込むようで、 きっとその人がなにをしても許してしまうんじゃないかと思うような…。 それに、その人といるときはとても温かい笑顔をするんです。 そんな優しい眼差しや笑顔を壊してまで、 自分のほうに彼の想いを向けたいとは思いません。」 「そう、栞さんは心が広いんだね。 強いのかな。 僕だったら、自分の好きな人が他の人を見ているなんて耐えれないけどな。 自分のことを知らないのならともかく、知っているのに…。」 「そんなことありません。 私は臆病なだけなんです。 勇気がないんです。 傷つくのが怖いから、 見ているだけで精一杯なんです。」 「…なんか僕のほうが励まされちゃったみたいだね。 さ、5分前だ。 もう行かないと。 僕が鍵を閉めていくから、先に行っていいよ。 今日はありがとう。 これからもよろしくね。」 そういうと、 木村先輩は私に向かって右手を差し出した。 私は一瞬躊躇したが、 そっと先輩の手を握らせていただいた。 暖かくて、大きくて、優しい手だった。 いつまでも握っていたかった。 私はそっと手をはずすと一礼して放送室を出た。 私の胸には一足早く春が来た。
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