私のテゾーロ

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 店内に入ると、雅人さんが何事かと血相を変えて駆け寄ってきた。  「紗雪、どうした?」  先生は私を空いているテーブル席の椅子に座らせて、雅人さんに事の詳細を話した。  「この間の客か?」  「うん…元彼なの…ヨリ戻したいって…」  雅人さんは店の奥から氷を袋に入れて、タオルと一緒に持ってきてくれた。 店には二組ほど見知らぬ客が食事中だったが、こちらを気にする様子はなく、各々の会話に花を咲かせているようだった。  「紗雪、今日は帰りな。手も痛いだろうし…あぁーでも、それはそれで心配だな…さすがにもう来ないと思うけど…俺が終わるまで待てる?送るわ。」  雅人さんは、考えていることをそのまま口に出したようで、言っていることにまとまりがない。  それでも言おうとすることは理解できたので、私は「うん…待ってる…」と答えた。  一人で帰りたくない。  手首の痕を見ると、不安と恐怖でまた体が震えだす。  「よければ僕が送りましょうか?」  隣で黙って私たちのやりとりを聞いていた先生が口を開いた。  「いえいえ、そんなわけには…」  先生の申し出は嬉しかったが、迷惑をかけたくないという気持ちの方が先行していた。  私は「これ以上ご迷惑おかけするわけにはいきません…」と続けるが、そんな私の気持ちを他所に、雅人さんが「おぉ、それは助かる!」と先生の提案が、渡りに船とでもいうように私の声をかき消して答えた。  「俺、実は店閉めた後やんなきゃなんないことあって…悪いけど頼める?」  「了解。じゃあ車とってきます。」  「いえ、あの…」  「20分くらいで戻りますんで、待っててください…」  私が言おうとすることを無視して、先生は店を出て行ってしまった。  「大丈夫、柊真の家ここから近いんだ…それに、あいつ教師だし信用できるやつだよ。頼れるお兄さんだと思って甘えときな。今度あいつにサービスしとくから。」  雅人さんはそう言って、優しく私の頭を撫でた。  信用できて頼れる人というのは、もうとっくに知っている。  あの時、先生がいなかったら私はどうなっていたんだろう…  またそんなことを考えてしまって、寒気がする。  落ち着こうと思い、遠くを見て深呼吸していると、不意に厨房の方から視線を感じた。それは人見知りの強面シェフだった。手招きされて雅人さんがシェフの元へ行くと、トレイを渡されて戻ってきた。  トレイには大きな白いマグカップが乗っている。そこから甘く優しい香りが漂って、私の鼻をかすめた。  雅人さんが「シャイなシェフから」と私の前にマグカップを置いてくれる。  ホットココアだ。  ゆるくホイップされたクリームもふんわりと乗せられていて可愛いらしい。  私はマグカップを両手で持ち上げて、シェフの方を見て「頂きます」を伝えた。  シェフは強面の顔をニッコリさせて手を振ってくれた。  もしかしたら、初めて笑顔を見たかもしれない…  そのシェフの笑顔と、チョコレートと甘辛いシナモンの香りに癒され、私の 強張った肩から力が抜けた。  こんなにも私のことを心配してくれる人がいるのだと、みんなの優しさに触れて嬉しくなった。  Tesoro(テゾーロ)はイタリア語で『宝物』『大切な人』っていう意味だと前に雅人さんが教えてくれた。  Tesoroのスタッフ、先生、それに夏帆さん…  私のテゾーロ達に感謝して、甘くて温かいココアをひと口ひと口ゆっくりと味わった。
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