183人が本棚に入れています
本棚に追加
/114ページ
カタログを数冊もらい、出入り口まで見送られる。
周囲には誰もいない。
ここだ。
「ありがとうございました」と頭を下げようとする俊介に「君はー…紗雪の元彼なんだってね…」と、体を少しばかり寄せて、低い声でしっかり届くように言った。
やっと帰ってもらえると思って、完全に油断していたであろう俊介の表情が一瞬で強張る。
そして、チラチラと、俺の後ろにいる強面のシェフの顔を気にしている。
「え…あのっ…」
「二度と紗雪のまわりチョロつくな。こっちは、お前のやったこといつでもお前の上司に相談しに来れるんだからな…」
俊介の顔からみるみる血の気が引いて、青ざめていく。
「わかったのか?返事しろよ。」
「…は、はい!」
涙目の俊介は「す、すみませんでした」と続けた。
「あぁ、俺に謝られてもねぇ…」
「すみません…すみません…」
俊介は頭を下げ続ける。
「約束だからな。金輪際、紗雪のことは忘れて、真っ当に生きろ。」
「はい、約束します…もう、会いに行きません…」
俊介が今にも泣きそうだったし、これだけ圧力かけとけば大丈夫だろう。
「じゃ、貴重な時間どーもね。」
カタログを持つ手を振って、ディーラーを後にした。
はぁ…
慣れないことをして、どっと疲れが押し寄せる。
こんなことにシェフまで付き合わせてしまって申し訳なく思い、帰りの車内でお礼を伝えた。
「いいえ、マスター。僕はお役に立てましたか。」
相変わらず顔がコワイ…
「居てくれるだけで心強かったです。ありがとうございました。」
俺の言葉に、強面のシェフが少しだけニヤけた。
ミッションは無事に(?)終了。
俺は色眼鏡を外した。
世界の色が鮮やかになって、街路樹の桜が色づき始めていることに気づいた。
行きは緊張していて、周りの景色なんて見る余裕がなかった。
もう、明日にでも満開かな…
北海道のいい季節がやってくる。
少しだけ車の窓を開けて、風を浴びる。
「春ですなぁ…」
少しだけ気持ちが上がるのを感じて、無性にあの人に会いたくなった。
*
車を専用駐車場に停めると、いつもは空いているスペースに白のベンツが停まっているのを見つけて心が踊った。
期待通り、Tesoroに戻るとあの人が来ていた。
シェフは状況を察して、挨拶をして直ぐに厨房へ消えて行った。
俺は店の休憩室でお茶を出す。
「調子はどう?」
「ボチボチです。」
久々に見る仕事の顔。
いつ見ても整った綺麗な顔。
肩ほどまである髪を今日は一つで束ねていて、襟足に落ちた後毛がとてもセクシーだ。
「そうだな、歓迎会シーズンでそこそこ予約入ってるみたいだし…この調子で…」
俺は我慢できずに、言葉を遮って唇を奪った。
「ん…雅人…」
突然で少し驚いたように力が入っていたが、直ぐに緩んで俺を受けいれた。
「アキラ…ちょうど、会いたいと思ってたんだ…」
俺はTesoroオーナーの明を抱きしめた。
明もフフッと笑って、そっと俺の腰に手を回した。そして、甘えるように俺の首元から耳に自分の額を滑らせて、耳を甘噛みして悪戯に笑った。
そして数秒見つめ合い、どちらからともなく、再び唇を重ねた。
「なんか…あった?」
明がキスの合間に聞いてきたが、その質問は甘い吐息と共に消えていった。
最初のコメントを投稿しよう!