嘘のハジメマシテ

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 私は、他に客がいないことをいいことに、カウンター席に座ってポルチーニのクリームパスタを注文した。  頬杖をついてカウンター奥のお洒落なお酒のボトルたちを眺めながら、オレンジ色の間接照明のしっとりとした雰囲気や、カウンターの上部の逆さづりのグラスのキラキラを堪能する。  すっかり慣れたはずの場所なのだが、私はこのカウンターが大好きだ。  雅人さんが、パスタとグラスワインを持ってきてくれた。  「え、いいの?」  私は料理だけのつもりだったのに、ワインまで出てきて驚いた。  「いいよ、お客さんいないし。今日はサービス。」  雅人さんは苦笑いでそう言って、すぐに「あ、でも常連さんは来るかもね。」と付け足した。  その言葉通り、ものの数分で常連客が来た。  「あれ、ちゃん?」  仙台から単身赴任で来ている印刷会社勤務の後藤さんと、その部下の斎藤さん(独身)だ。見た目年齢的には、後藤さんは50代半ば、斎藤さんは30代後半といったところだろうか。後藤さんも斎藤さんも少々薄毛気味なので、もしかしたら実年齢よりもう少し若いのかもしれないが、答え合わせをする勇気は私にはないため実のところよくわからない。  この二人は金曜にもよく来るのですっかり顔馴染みなのだが、正しい名前を何度伝えてもちゃんになってしまうので、もう訂正することを諦めた。  私は「こんばんは」と営業スマイルで二人に会釈して、テーブルに視線を落とし、パスタをフォークにグルグルと巻き付けた。  後藤さんは飲み始めると少し説教くさいところがあるから、面倒くさくなる前に退散しようと食事に専念することにしたのだ。  後藤さんと斎藤さんの背後にもう一人、長身でスタイルの良いスーツ姿の男性が後から入ってきたようだったが、私は目の端にその人の存在を認識しつつも見向きもせずにグラスワインを飲みほした。  「あ、いらっしゃい。お疲れ様です。」  雅人さんがカウンターから三人に声をかける。  「いつもの」  「俺も」  後藤さんと斎藤さんがいかにも常連っぽくカウンター席に座る。  「あれ、結城(ゆうき)くんはちゃん初対面じゃない?」  後藤さんがそう言ったので、私は初めてその長身の男性に視線を向けた。  全身の毛穴がギュっとしまったような感覚に襲われた。  え!?結城…先生…  心臓が一度大きく高鳴ったかと思うと、急激に速度を上げてドクドクと騒がしくなる。胸の辺りからじんわりと熱を帯びて、全身が熱くなるのを感じた。 細めの黒縁眼鏡の奥から、真っすぐに視線を送る先生の二重瞼の優しい目。  9年経ってもちっとも変っていない。  「は、はじめまして。」  私は咄嗟にそう口走ってしまっていた。  「あ、はじめまして。結城と言います…」  先生は私を見つめて、目を細めて優しく微笑んた。  私は照れを隠すように「織田 紗雪です。」と名乗って、視線を外して頭を下げた。
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