好きのハジマリ

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 杏ちゃんは私の母と雅人さんの姉で、私の伯母だ。  42歳という若さで、癌で亡くなった。  大好きな叔母の杏ちゃんは、いつも明るくて快活な人だった。  小学校の教師だった杏ちゃんは、時々私に勉強を教えてくれたりもした。母とは年子で友達みたいな姉妹で、独身だった杏ちゃんは、私のもう一人のお母さんのようなそんな存在だった。  亡くなる半年前、杏ちゃんは余命宣告を受けていた。  母だけがそのことを知っていて、絶対に誰にも言わないでと口止めされていたのだと、葬儀の後で聞かされた。  「どうせ助からないなら、最期まで好きに生きたい。同情されたくない。いつもと変わらずに最期まで一緒にいたかった」と杏ちゃんは言っていたそうだ。  杏ちゃんの命が後わずかだと知っていれば、もっと何か杏ちゃんにしてあげられたんじゃないかと、私は母を罵倒した。いくら私が子供でも、ちゃんとお別れを言いたかったし、感謝の気持ちもたくさんたくさん伝えたかったのに…と。  悲しくて心が沈んで、学校に行きたくなかった。  でも、それ以上に家にいたくなかった。  杏ちゃんとの思い出が、次から次へと思い出されて、悲しくて、寂しくて、苦しくて、杏ちゃんにそっくりな母の悲しげな顔も直視できなかった。  放課後、部活をさぼって、誰もいない教室に一人残って、私は無心で漢字の書き取りをしていた。  ノートの隅から、隅へ意味もない二字熟語を書き連ねた。  糾弾、崩壊、狂惑、卑屈… 国語の教科書の漢字のページから拾い上げる文字は、どうしても負イメージのものばかりだ。  そんな時、新任の教師が声をかけてきた。  整った顔のイケメン先生と女子の間ではやし立てられている先生だ。確かに 面構えが良くて、長身でスタイルもいいから、目を引く存在なのは間違いない。  勤続してまだ2カ月やそこらの新米教師のくせに、こんな面倒くさい生徒を無視しないんだなと、なんとなく感心した。  でも一人になりたい私は、色々と悩みを相談しろとかなんとか直球の熱血ごっこに付き合うつもりなんてなかった。だからしっかり身構えていたのに、 先生は 「立場上、本当はすぐに帰れって言わなきゃダメなんだけど僕もここでサボらせて?内緒ね…」と、ただそう言って、少し離れた席に座って本を読んだり、書き物をするだけだった。  事情は話さずとも、情報共有とやらで学年の先生たちは知っていたのだろう。  皆、どことなく気を使ってくれていることを子供ながらに感じていた。  数日間、先生は教室に来て、同じように過ごした。  堅物のヒステリックな担任に知られれば、強引にも帰されるであろうことを私は知っていたし、おそらく先生もわかっていて黙ってくれていたのだろう。  杏ちゃんの死から三週間が過ぎた頃、ようやく杏ちゃんの死を現実のものと理解して、私は先生に話しかけてみた。
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