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「先生は大切な人を亡くしたことはありますか」
先生はゆっくりと静かな声で「あります」と答えた。
そして「育ての親同然の祖母を病気で…」と続けた。
「亡くなる前に、お祖母ちゃんに『ありがとう』は言えましたか」
私はそう言いながら涙ぐんで、鼻が詰まったような声になった。
「祖母は僕が中三の時で、反抗期真っただ中で受験もあって、祖母の体の調子のことなんてちっとも気遣ってあげられていなかった。調子が悪いのに、食事の支度や洗濯なんかもきっちりしてくれていて…それなのにそれが当たり前みたいに…ありがとうひとつ言わなかった後悔ばかりが残ってるよ」
先生は悲しげにそう言った。
何言うわけでもなく、毎日毎日、同じ空間にいてくれたこと。そして自分のことを話してくれたことに、すっかり気を許して、気づけば杏ちゃんのことを泣きながら話していた。
杏ちゃんへのお別れの言葉、感謝の言葉が伝えられなかったやるせなさ、母への怒り、死への恐怖まで、気づけば感じていること全てを吐き出していた。
先生は、黙って頷きながら聞いてくれた。
そして静かに口を開いて「松岡は、杏ちゃんが大好きだったんだね…」と、それから「僕は杏ちゃんのことは知らないけど、杏ちゃんは松岡の優しくて悩んじゃう性格を知っていて言えなかったんじゃないのかな…きっと、最期まで松岡の屈託のない笑顔が見たかったんだよ…お母さんも、きっとすごく悩んだと思うよ…お母さんも松岡と同じくらい…いや、それ以上に悲しいはずだから、死が近いと聞いたことも、黙っていなきゃいけなかったことも、相当つらかったはずだよ…」と言った。
私は、先生の言葉を聞いてわんわん泣いた。
それまで散々周りの大人たちに慰めの言葉をもらっても、ただ鼓膜が震えるだけで、私の元へは届かなかった。けれど先生の言葉はスッと心に入り込んで、温かく包み込んでくれるようだった。
自分がしてあげられなかったことばかり考えて、杏ちゃんの優しさや母の苦しみを理解していなかったことをひどく悔やんだ。
「先生、私帰ります。ありがとうございました。」
私は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔のまま、家路へと急いだ。
そして、帰宅するなり母に抱きついて「ごめんね…」と言って、またわんわんと泣いた。
母も、私につられてわんわん泣いた。
私はその時、初めて母の泣いているところを見た。
ずっと、ずっと、私の前で泣かないように我慢していたんだ。
二人で「杏ちゃん…杏ちゃん…」と、父が帰ってくるまで電気もつけずに泣き続けた。
その翌日、ぼんぼんに腫れた目で登校する羽目になったが、部活にも戻って、その後も放課後の教室に残ることはなくなった。
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