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「彼氏ー?あんな奴、知らなーい…」と、夏帆さんは頬を膨らましてから、お通しのチーズをチビチビ食べる。
なるほど、全然気が付かなかったけど、彼氏さんと喧嘩中というわけか…
それで、今日は帰りたくないってことなのかな…
「結城さんは先生なんですよね?社会科でしたっけー?」
夏帆さんが話をそらして、先生を質問攻めにする。
そして、夏帆さんは検定を受けるほど世界遺産好きなので、初対面とは思えないほどに二人の会話は弾んでいた。
さすが、コミュ力お化けの夏帆さんだ。
「あぁ、モンサンミッシェル見に行きたいなー…新婚旅行は絶対フランス…」
そう言う夏帆さんに『まずは、仲直りからですよ…』と思ったが、口に出すのはやめておいた。
「ね、紗雪はどこに行きたい?新婚旅行」
「んぐっ……――え?シン…コン…」
夏帆さんの突然のふりに、私は飲んでいたワインを危うく吹き出すところだった。
夏帆さんは「イタリアとかオススメだよー」と、ニッコリ笑顔で頬杖をつく。
「あ、そうですね…フィレンツェとか、アマルフィー海岸とか行ってみたいです…映画に出てきたってくらいでしか知識無いですけど…」
そう言ってはみるが、頭の中は”新婚旅行”というフレーズがグルグルと旋回して、内心ドキドキしていた。
それなのに、先生は澄ました顔で「その映画って邦画?」と、特に気にする様子もなく話を続けた。
そんな先生の様子に、意識しているのは自分だけか…と少し寂しい気持ちで「そうです…」と映画のタイトルを伝えた。
よくよく考えてみたら、先生は一度結婚しているわけだから、結婚式も新婚旅行も経験済みの可能性が高い。
具体的にそういう話を聞いたわけでもないし、過去のことはどうしようもないのに、モヤモヤと嫌な感情が湧いてきてしまう。
夏帆さんは、私のそんな負のオーラを察してか「まぁ…ほら、もう一献」と私のグラスにワインを注ぐ。
そして「私はちょっとお花摘みに…」と、夏帆さんは一回目のトイレへと向かった。
私は、ビールを呷る先生をジーっと見つめた。
あぁ、素敵な顎のライン…喉仏…
もう、私はその気になれば、そこへ唇を寄せることができるのだ。
そんな”恋人”というポジションで、ただ一緒にいられることだけで幸せなのに…
夏帆さんが変なこと言うから…
どんどん欲張りになっていく自分がいる。
私はワインに口をつけて、雑念を追い払うために小さくため息をついた。
先生はトイレの方をチラリと見てから、私の耳元に顔を寄せて「覚えておくね、フィレンツェ…」と言った。
そして、カチャっと眼鏡を直した。
あぁ、私って本当に単純。
たった一言でこんなにも感情を揺さぶられるんだから…
トイレから戻ってきた夏帆さんが、私の締まりのない顔を見て、ニヤリと笑って背中を小突いた。
「うぐ…」
私はまた、悶絶した。
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