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都市の片隅にある寂れたそのビルの三階には、奇妙な施設があった。
自動ドアが開けば、その外観からは想像もつかないほど清潔で真っ白な空間が広がっている。色を忘れた部屋に一歩を踏み出すのは、それなりに勇気のいる行動だった。
心の準備を整えてから、僕は重い足を前に出した。
「いらっしゃいませ」
入店と同時に、カウンターにいた女性がこちらに声をかけてくる。彼女は店内に同化するように真っ白な服を着ていた。
僕がカウンターに近寄ると、女は言った。
「時間ですか? 記憶ですか?」
記憶だ、と僕は言った。
女は「かしこまりました」と言い、僕を奥の部屋へと誘導した。
その部屋で、僕は売れるだけの記憶を全て売却した。
僕が記憶を売らなければならなくなった経緯を語るには、およそ五年前、つまり僕が十六歳だった頃に遡る必要がある。
当時の僕は、父親が作った借金を返すために高校に通わずに働かなければならなかった。
「いいか、春樹。たとえ偽物でも良い記憶っていうのはあればあるだけいいんだ。成功体験ってのは人を成長させるからな」
そんなことをよく言っている父親だった。そして、彼のその発言は彼自身の教育方針に色濃く反映されている。
父はよく、まるで会社帰りにスイーツでも買ってくるかのように、真新しい記憶を僕のために買ってきた。
僕が野球のマウンドでホームランを打つ記憶、僕がサッカーのコートでハットトリックをする記憶、僕が学校のテストで学年一位を取る記憶。種類や価値の重さはどれをとってもバラバラだった。
しかし共通していたのは、そのどれもが輝かしい記憶だったということだ。だから、幼き日の僕は父が記憶を買ってきたら両手を上げて喜び、父に酷く感謝していた。
その記憶たちがそれなりに値が張る代物だと知ったのが十六歳の頃だった。それを買うために彼が借金をしていたと知ったのもちょうどそのくらいだ。
父は僕の知らない間に姿を消していた。おそらく、借金を返すために売れるだけの時間を売ったのだろう。
時間の売り方は二つある。一つは今まで過ごしてきた時間を売る方法、そしてもう一つは自分がこれから過ごすはずの時間を売る方法だ。
父はきっと後者だったのだろう。その場合、売れるだけの時間を全て売れば、この世界から音もなく消えてしまうから。
それでも、彼が作ってきた借金はまだ僕の手元に残っていた。
きっと母が亡くなって、父は僕を上手に育てられるか心配だったのだろう。だから彼は偽りの記憶に頼ったのだ。しかしながら、それはとても賢いと言える手段ではなかった。
借金を返すためには当然金がいるが、いなくなった父を見てしまったせいで、僕は時間を売るなんてことはできなかった。そこで僕はコツコツとバイトをしてお金を返していくという無難な選択をとった。
けれども、そんな生活は五年ほど続いたが、流石に埒が明かなくなった。そこで、僕は時間ではなく記憶を売るという選択を取ることにした。
記憶は時間とは異なり単位ではない。所有者によって、その価値は変化する。とはいえ、記憶は時間ほど値は張らないが、それでも借金返済の足しにならないわけではなかった。
結局、父が買ってくれた誰かの記憶は、借金を返すために再びお金に変えるしか使い道がなかった。偽りの成功体験は僕の背中を押すどころか、僕の足枷にしかならなかった。
記憶を売り捌いた後、僕の中には父と母に対する朧げな記憶と初恋の記憶しか残らなかった。その三つだけが大切だったのではない。その三つ以外が、あまりにも不必要だったのだ。
しかし、それでも僕の借金はまた半分ほど残っていた。父の買ってきた記憶は売ったところで元の値段の半分にも満たなかった。
中古の記憶になんて価値がないからだ。
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