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記憶を売ってから数週間がたったある日、唐突にインターホンが鳴った。
来客の予定はなかった。宅配便を頼んだ覚えもないし、連絡もなしに自分の家を訪れてくれるような友人は一人としていない。
おそらく、訪問販売の類だろう。そう思いながら、僕はアパートの重い扉を開けた。
扉の向こうに立っていた人物を見たとき、僕はいよいよ自分の身が危うくなり始めているのではないかと錯覚してしまった。それくらい、彼の姿は表世界に健全に存在している男のようには見えなかった。
「よう。元気してたか?」
スーツを着た男はサングラスを取ってこちらを一瞥した。身の危険を感じた僕は思わず彼の脇を抜けて逃げ出したしまおうかと考えた。しかしいくら気が動転しているとはいえ、こんなやせ細った身体では猛獣のように屈強なその男から逃げることは到底叶わないという予想をすることはできた。
「あなたと僕は健康を心配しあうような関係でしょうか?」
目の前の脅威に真面目に取り合おうとしたとき、案外この口は滑らかに動いた。
僕がそうやって遠回しに初対面だろうと確認すると、男は「確かにあんたにその覚えはないだろうな」と言って大げさに笑った。
「話が長くなる。中に入れてもらえないか?」
男はそう言うと、僕が頷くよりも先にずかずかと部屋の中に入ってきた。
玄関で靴を揃えた男は、ワンルームの僕の部屋を見渡して大きくため息をついた。彼の視線が特に集中していたのは、部屋の中央に置かれている座卓、その上にある袋麵の抜け殻たちだった。
部屋が汚いことを不快に感じているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
「自炊は苦手か?」
「いいえ」と僕は首を振った。「自炊をするよりもこっちの方が安くすみますから」
僕がそう言うと、男は「そうか」と心底同情したように呟いた。
先ほどから、何かと不可解な男だ。玄関では、まるで近所の子供に話しかけるみたいに僕に話しかけたかと思ったら、今度は本当の息子を憐れむような態度を僕に向けている。
もしかすると、彼と僕はどこかで出会っているのだろうか? まさか、記憶を売った弊害で彼を忘れているとでもいうのだろうか?
あの、僕はそう彼に声をかけようとしたが、先手を取ったのは彼の方だった。
「そんなお前に、割のいいバイトを紹介したい」
なるほど、と僕はそこで得心した。
どうやら、僕を罠にかけようという算段らしい。
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