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「お兄さんの初恋の話を聞かせて欲しいな」
縁側に座って裏庭を眺めながら玲奈は言った。
この時点で、すでに僕がこのバイトを始めてから数週間ほどが経過していた。足踏みをしていた夏が、いよいよ本格的に歩みを進め始めていた。
家屋の掃除を依頼されたはずが、僕は一日の大半を玲奈と会話しながら過ごしていた。
玲奈は一風変わった女の子だった。バイト初日、彼女とはお互いに笑顔を見せ合えるくらいに仲良くなったはずだった。けれども、彼女は次の日になると僕の存在を完全に忘れているようだった。
「あの子は一日ごとに記憶を売っているんだ」
その日の夜、田沼を問い詰めると彼は端的に彼女の状態を説明してくれた。
「どうしてだ?」と僕は訊く。
「お前と同じ理由だよ。だが、借金の量はお前とは比べ物にならないかもな」
田沼はそれ以上語ろうとしなかった。一介のフリーターに語るべき内容ではないと判断したのだろう。僕としても、それ以上深く訊き返すつもりはなかった。
ただあくまでも予想だが、彼が僕にこの仕事を頼んだ理由がわかった気がした。
「面白い話じゃないさ」と僕は返す。
「でも、私、気になります」
やれやれ、どうやら今回もはぐらかすことなんてできないみたいだ。
「僕が小学生六年生くらいだったな」と僕は話し始めた。どうしても売ることができなかった大切な思い出話を。
「当時の僕は偽りの記憶に浸って生きていた。父が買ってきた記憶の方が、自分で培っていた記憶よりも多かったくらいさ」
「良い話、ではなさそうですね」
「ああ」と僕は頷いた。「よくできた作り物だったからね。次第に僕はどれが自分の本物の記憶がわからなくなったんだ。どの記憶を手にとって眺めてみても、それがどうしようもなく嘘くさく見えてさ」
そこで僕は一度、ゆっくりと息を吸った。
「ただ、初恋の記憶だけは今でも本物だと思える理由があるんだ」
話が本題に入りそうだと悟ったのか、玲奈は背筋を伸ばして先ほどよりもさらに真剣そうな顔でこちらを見た。
「どんな理由なんですか?」
玲奈からの綺麗なパスを受けて、僕は言葉を続けた。
「今でもこの掌に、あの子の体温が残っているからさ」
それは何もかもが胡散臭くて、けれども紛れもなく本物の恋だった。
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