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 次の日、英は早く目が覚めた。近くのコンビニで朝食を買い、稽古場で食べる。  今日の稽古は午後からだ。それまでに十分時間があるから、一人で通しても良いかもしれない、と練習内容を決める。  食後の休憩を十分に取って、セットの中央へと向かう。音楽をかけるタイミングは自分でやるしかないが、そんなにロスはない。  セリフの一つ一つ、自分が出した声がどう聞こえているかを考え、発声する。最初は覇気がない鷲野。動きもぶっきらぼうで、友情を寄せられているのに、気付けない。 (まだ、チャンスはあるはず)  英は、歌も踊りも演技も上手いとは思っていない。ただ、演じている時だけ、自分ではない人になれることが楽しいのだ。単純に、演技が好きで、この世界に入って。  Aカンパニーに入ったのも憧れの月成がいた事務所だったから。彼が専属で脚本を書いているから。  いつの間にか演技は終わっていたらしい。集中すると周りが見えなくなる英だが、自分がやっていたことも覚えていないほど飛んだのは初めてだ。  一つ深呼吸して水を飲もうと振り返ると、そこには月成がいた。 「うわっ、いたんですかっ」 「相変わらず声を掛けても気付きやしねぇ」 「はぁ、すいません……」  英は水を飲むと、月成はいつになく真剣な顔で質問してきた。 「お前、降りる気はないのか」 「ないです」  即答すると、彼は忌々しそうに舌打ちした。イライラと頭を掻くと、大きなため息をつく。 「社長が気に入ってるから、どんな奴かと思えば……」 「可愛げなくてすいませんね」  英は月成を睨んだ。どうして自分ばかりを排除しようとするのだろう、今ここで聞いたら、答えてくれるだろうか。 「お前、社長と付き合ってるのか?」 「……は?」  月成の思いがけない質問に、英は一瞬何を聞かれたのかよく分からなかった。 「な、に、言ってるんですか。そんな訳ないでしょう」  質問の意味を理解すると、英は顔が熱くなったのを自覚した。月成から顔を逸らすと、彼はさらに問いかけてくる。 「じゃあ、何故あんなにお前のことを気に入っている?」  確かに社長の英への扱いは破格なのも知っている。しかし、何故と聞かれても本人ではないので答えようがない。 「知りません。本人に聞いてください」 「寝たのか?」 「な……っ」  何てことを聞くんだ、と英は拳を握った。これが月成光洋じゃなかったら、とっくに殴り倒している。 「違うって言ってるじゃないですか! あなたたちじゃあるまいしっ」 「……何?」  言ってから、英はしまった、と思った。月成の表情がみるみるうちに険しくなり、腕を掴まれたと思うと、壁に押し付けられる。 「どういう意味だ」  怖かった。間近で見る月成は舞台で見るよりも端正で、だからこそ、普通以上の迫力がある。しかし、ここで負けてはいられない。 「見ました。小井出さんとキスしてるところ。役者とそういう関係って、良くないんじゃないですか」  近くで睨む月成を睨み返しながら、英は必死で目を合わせる。逸らしたら、負けだ。 「アイツも主役取るのに必死なんだよ。可愛いじゃねぇか、哀れでよ」 (……認めた)  しかも月成は最低なことにそれを面白がっている。この人格破綻者、と心の中で罵った。 「お前も、俺の機嫌を取ってみるか?」 「実力で主役を奪いますから、遠慮します」  月成は、どこか壊れている、と英は思う。作品はあんなに繊細で美しいのに、情緒溢れる物語が多いのに、この人は人としての感情を捨てているのだ。 「作品は好きです。でも、月成光洋という人間は、大嫌いです」  こんな奴に、負けてなるものか。 「……本気で気に入らねぇ」 「……っ、んんん!」  月成の瞳が鈍く光ったかと思うと、次の瞬間唇を塞がれていた。逃げようとする顎を掴まれ、その力も容赦なく、痛くて口を開くと、舌が入ってくる。渾身の力を込めて胸を押すと、月成の体勢が崩れて唇が離れたのでその隙に思い切り頬を叩いた。 「ってぇな……」 「グーじゃなかっただけ感謝してください!!」  これ見よがしに唇を拭ってその場から逃げる。追ってこなかったので心底安心した。 (腹立つ、腹立つ、腹立つ!!)  ずかずかと足音を立て、事務所の前を通り過ぎると、木村に呼び止められる。 「どうしたんだい? 英くんが目に見えて怒ってるなんてめずらしいね」 「社長……」 (寝たのか?)  ついさっき言われた月成の言葉を思い出す。やましいことはしてないからいいのだが、気まずくて視線を逸らしてしまった。 「ちょっと……かなりものすごくムカつくことがあったので」 「英くん?」 「すみません。頭冷やしてくるので、失礼します」  英はそのまま木村の言葉を待たず、走り出した。 (社長のお気に入りなんて、オレそんなつもりで付き合ったことないのに)  応援してくれる人がいる。それがたまたま社長だったってことではないのか? やましいことなんて何もしていないのに、変に勘ぐられたことがショックだ。その上、何故あの展開でキスになるのか。 「…………っ」  英は、もう一度唇を拭った。さっきの月成の唇の感触、野性的な彼らしくそれは厚く、弾力もあった。今更ながら顔が熱くなり、思わず体まで熱くなりそうだったので英は走り出す。  その後、稽古が始まる時間まで、落ち着かない心と体のストレスを発散させるため、英は外に出て走り続けたのだった。
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