105人が本棚に入れています
本棚に追加
15
次の日、英は早く目が覚めた。近くのコンビニで朝食を買い、稽古場で食べる。
今日の稽古は午後からだ。それまでに十分時間があるから、一人で通しても良いかもしれない、と練習内容を決める。
食後の休憩を十分に取って、セットの中央へと向かう。音楽をかけるタイミングは自分でやるしかないが、そんなにロスはない。
セリフの一つ一つ、自分が出した声がどう聞こえているかを考え、発声する。最初は覇気がない鷲野。動きもぶっきらぼうで、友情を寄せられているのに、気付けない。
(まだ、チャンスはあるはず)
英は、歌も踊りも演技も上手いとは思っていない。ただ、演じている時だけ、自分ではない人になれることが楽しいのだ。単純に、演技が好きで、この世界に入って。
Aカンパニーに入ったのも憧れの月成がいた事務所だったから。彼が専属で脚本を書いているから。
いつの間にか演技は終わっていたらしい。集中すると周りが見えなくなる英だが、自分がやっていたことも覚えていないほど飛んだのは初めてだ。
一つ深呼吸して水を飲もうと振り返ると、そこには月成がいた。
「うわっ、いたんですかっ」
「相変わらず声を掛けても気付きやしねぇ」
「はぁ、すいません……」
英は水を飲むと、月成はいつになく真剣な顔で質問してきた。
「お前、降りる気はないのか」
「ないです」
即答すると、彼は忌々しそうに舌打ちした。イライラと頭を掻くと、大きなため息をつく。
「社長が気に入ってるから、どんな奴かと思えば……」
「可愛げなくてすいませんね」
英は月成を睨んだ。どうして自分ばかりを排除しようとするのだろう、今ここで聞いたら、答えてくれるだろうか。
「お前、社長と付き合ってるのか?」
「……は?」
月成の思いがけない質問に、英は一瞬何を聞かれたのかよく分からなかった。
「な、に、言ってるんですか。そんな訳ないでしょう」
質問の意味を理解すると、英は顔が熱くなったのを自覚した。月成から顔を逸らすと、彼はさらに問いかけてくる。
「じゃあ、何故あんなにお前のことを気に入っている?」
確かに社長の英への扱いは破格なのも知っている。しかし、何故と聞かれても本人ではないので答えようがない。
「知りません。本人に聞いてください」
「寝たのか?」
「な……っ」
何てことを聞くんだ、と英は拳を握った。これが月成光洋じゃなかったら、とっくに殴り倒している。
「違うって言ってるじゃないですか! あなたたちじゃあるまいしっ」
「……何?」
言ってから、英はしまった、と思った。月成の表情がみるみるうちに険しくなり、腕を掴まれたと思うと、壁に押し付けられる。
「どういう意味だ」
怖かった。間近で見る月成は舞台で見るよりも端正で、だからこそ、普通以上の迫力がある。しかし、ここで負けてはいられない。
「見ました。小井出さんとキスしてるところ。役者とそういう関係って、良くないんじゃないですか」
近くで睨む月成を睨み返しながら、英は必死で目を合わせる。逸らしたら、負けだ。
「アイツも主役取るのに必死なんだよ。可愛いじゃねぇか、哀れでよ」
(……認めた)
しかも月成は最低なことにそれを面白がっている。この人格破綻者、と心の中で罵った。
「お前も、俺の機嫌を取ってみるか?」
「実力で主役を奪いますから、遠慮します」
月成は、どこか壊れている、と英は思う。作品はあんなに繊細で美しいのに、情緒溢れる物語が多いのに、この人は人としての感情を捨てているのだ。
「作品は好きです。でも、月成光洋という人間は、大嫌いです」
こんな奴に、負けてなるものか。
「……本気で気に入らねぇ」
「……っ、んんん!」
月成の瞳が鈍く光ったかと思うと、次の瞬間唇を塞がれていた。逃げようとする顎を掴まれ、その力も容赦なく、痛くて口を開くと、舌が入ってくる。渾身の力を込めて胸を押すと、月成の体勢が崩れて唇が離れたのでその隙に思い切り頬を叩いた。
「ってぇな……」
「グーじゃなかっただけ感謝してください!!」
これ見よがしに唇を拭ってその場から逃げる。追ってこなかったので心底安心した。
(腹立つ、腹立つ、腹立つ!!)
ずかずかと足音を立て、事務所の前を通り過ぎると、木村に呼び止められる。
「どうしたんだい? 英くんが目に見えて怒ってるなんてめずらしいね」
「社長……」
(寝たのか?)
ついさっき言われた月成の言葉を思い出す。やましいことはしてないからいいのだが、気まずくて視線を逸らしてしまった。
「ちょっと……かなりものすごくムカつくことがあったので」
「英くん?」
「すみません。頭冷やしてくるので、失礼します」
英はそのまま木村の言葉を待たず、走り出した。
(社長のお気に入りなんて、オレそんなつもりで付き合ったことないのに)
応援してくれる人がいる。それがたまたま社長だったってことではないのか? やましいことなんて何もしていないのに、変に勘ぐられたことがショックだ。その上、何故あの展開でキスになるのか。
「…………っ」
英は、もう一度唇を拭った。さっきの月成の唇の感触、野性的な彼らしくそれは厚く、弾力もあった。今更ながら顔が熱くなり、思わず体まで熱くなりそうだったので英は走り出す。
その後、稽古が始まる時間まで、落ち着かない心と体のストレスを発散させるため、英は外に出て走り続けたのだった。
最初のコメントを投稿しよう!