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 稽古の進みは順調だった。  今回は登場人物が少ないため、ストーリーを追って稽古をしていることもあり、英は作品の理解を深めやすくて助かる、と思う。  ただ、相変わらず月成は英に厳しいままで、どのシーンも未だに合格点が出ていないのが、やる気をさらに削っていた。 「もういい。瑠璃、さっきのセリフからくれ」  今もまた、途中で匙を投げられ、悔しくて唇を噛む。 「英、お疲れさん」  壁際に行くと、東吾が話しかけてくる。彼は出番がないときはいつも英に話しかけてきてはちょっかいをかけ、気にかけてくれるのだが、正直凹んでいるときは、放っておいてほしい。  それに、彼と話していると、月成に睨まれるのだ。 「今日もオーケー出なかったねぇ。でも、俺的にはあとちょいだよ」 「……ありがとうございます」  答えながら月成を見ると、やっぱりこちらを睨んでいる。 「……ここからストーリー変更だ。差し替えの台本は今作成中。面倒だから今から説明しつつやる」  え? と稽古場がどよめいた。ストーリーはマスターと「瑠璃」が両想いになり、抱き合うシーンだ。話のメインを変えるとは、いったいどういうことか。 「ここで濡れ場を入れる。……瑠璃、お子様には見せられないくらい盛り上がってくれよ?」 「了解」  高島はバーカウンターの上で月成と手を繋ぐ。互いの目を見つめ合いながら、手だけで卑猥な遊びをする二人。それがだんだんエスカレートして、カウンター越しのキス。  月成の説明付の演技でも、二人の醸し出す色気は強烈なものがあった。英はそれに見入ってしまう。  月成のたくましい腕が、高島の細い二の腕を掴んで引き寄せる。そのまま顔を引き寄せて、愛おしい人の頬を宝のように撫でる――その次の行動を知って、英はそれ以上、見ていられなかった。 「おいたんぽぽ」  目を逸らしたところで声を掛けられ、びくりと肩が震える。 「邪魔しに来い」 (……最悪だ)  どうしよう、と月成を見ると、彼は面白そうにニヤニヤしている。これが、この間思いついたと言っていた「良いこと」なのだ、と知った。  仕方なしに英はバーの入り口があるという設定の下手につく。 「開口一番お前はこう言う。『抱くならアタシを抱きなさいよっ』だ。それ以降は任せる」  じゃ、盛り上がってるから、と英のタイミングで入ってくるよう指示され、思いつくままにやるだけだ、と腹をくくる。 『ちょっと! 抱くならアタシを抱きなさいよっ』  英は勢いよく入って言って、「瑠璃」の体を剥がそうと引っ張る。 『ちょ、何よあなた!』  剥がされた「瑠璃」はマスターに近づこうとする英を止めた。腕を引っ張られ、結構な力で引き戻される。こうなったら、取っ組み合いの喧嘩だ。 『いいからマスターから離れなさいよっ』 『あなたには関係ないでしょ!』  しかし所詮は男女だ。手加減しているつもりでも、英の方が力では勝る。勢い余って瑠璃を突き飛ばすと、彼女は転んで尻餅をついた。 『瑠璃!』  マスターが慌ててカウンターから出てくる。「瑠璃」を心配する月成を見て、英は初めてこれが「間違い」だったと気付いた。  月成が英を睨む。その眼は恋人を傷付けた敵を憎む、眼。  英の心臓が痛いほど大きく、打った。 『……二度と、うちの店には来ないでください』 「……っ」  ギュッと、心臓を鷲掴みにされた。  初めて月成作品を見た時に感じた、時が止まるような感覚。  英はその場から少しも動けず、言葉を失う。完全に月成の演技にのまれ頭の中が白くなり、今自分が何者であるか、分からなくなってしまう。  ボタボタ、と何かが床に落ちた。 「……あれ?」  英は反射的に袖でそれを拭った。濡れている。正面にいる高島は驚いたような顔を見せ、月成は真面目な顔をして英を見ている。一体何が起こったのか、英には分からなかった。  しかし、床に落ち続けている液体は、無色透明で塩辛い。 「……ぅ」  発作のように嗚咽が始まって口を押えた。ここにいてはいけない、と何故かそう思い、稽古場から飛び出す。 「英くん!?」  廊下を走っていると木村に出くわした。顔を見られないよう避けて通り過ぎようとするが、強い力で二の腕を掴まれ正面を向かされる。 「どうしたの!?」  いつになく慌てた様子の木村だが、英は答えることもできなかった。堪えていないとこぼれてしまう涙を抑えるのに必死で、ふるふると首を振る。 「とりあえず、座ろう」  木村は英の腕を掴んだまま、足を進めた。すぐ近くに事務室があり、その隣の部屋へと勧められる。社長室だ。  稽古場兼事務所なので、そんなに広いスペースはないが、やはり木村の趣味であろう家具が置いてあり、落ち着いた雰囲気だ。  英はそこの、やたら座り心地が良いソファーに座らされる。柔らかい材質に埋もれると、少し心が落ち着いたように思えた。 「はいこれ、熱いから気を付けて」  木村がどこからか湯呑に入ったお茶を持ってきた。これも社長の好みだろうか、英がいつも飲む緑茶より、数段香りが良い。  まず落ち着かないと、と英は湯呑に口を付けた。温かいお茶が喉を通ると同時に、目頭で止めていた涙もスッと引いて行くように感じる。 「大丈夫かい?」 「……すみません」  謝ると、木村は苦笑して隣に座った。 「こう言ってはなんだけど、早めに振り切れて良かったよ。今回は最初から溜め込んでいたみたいだし」  何があったの? と優しく聞いてくる木村に、英はどう答えていいか分からなかった。  今思いつく言葉で一番近いものを挙げるとすると、英は傷付いたのだ。しかし、何故なのかは分からない。 「……監督の演技を間近で見たら、完全に飲み込まれてしまいました。オレを憎んでいる目を向けられて、『二度と来るな』とセリフを言われ……オカマの英はマスターが好きだから、そう言われてショックを受けたリアクションをしなきゃいけないのに、何もできなかったんです」  先ほどの月成の迫力はすさまじかった。本気で嫌われた、と英も思ったほどだ。いつもニヒルな笑いを浮かべている月成が、本気で相手を排除しようと思ったらああなるのか、と想像したら、背筋が寒くなった。  そしてその瞬間、この恋は諦めなきゃいけないのか、と思ったのだ。  英は役と自分がごちゃ混ぜになっていることに気付く。どこからが役で、どこからが自分なのか、境目が分からない。  そういうことか、と英は息を吐き出した。  あれは演技だ、月成が言ったセリフは英の役に対してであって、英自身ではない。それを、自分が言われたと勘違いして、舞台の上で素の英を出してしまった。本当に、あの演技は「間違い」だったのだ。 「……オレ、今回の舞台でもみんなに迷惑かけて……」 「……いつになく弱気だね」  木村は英の肩を抱いた。そのまま引き寄せられ、逆らう気もなく体を預ける。 「いいかい、君は否定するかもしれないけれど、スタッフやキャストの君への評価は高いよ?」 「でも、マスコミは脚本に救われたなって……」  一度弱気になってしまうと、一気に落ちてしまうらしい。英はぐちぐちと愚痴をこぼす。 「普段の英くんを知らない奴らに、何を言われても痛くないよ」  こんなにいい子なんだから、と木村はさりげなく英の額にキスをする。驚いて木村を見ると、そこには一人の男の顔があった。相変わらず男前な容姿をしているが、纏いつく空気がいつもと違う。 「恋愛……」  木村は英の額に自分の額を付ける。鼻が触れそうな距離にきた木村に、英はドキリとしてしまった。 「したことがないなら、私としてみるかい?」  間近で囁く声はとても甘い。しかし、すぐに木村は苦笑し、離れる。  弱ったところに漬け込むのは、よくないな、と独り言を言って立ち上がると、携帯電話を取り出し、誰かに電話をかけ始めた。 「君がフォローしないなら、私がその役を買って出るけどいいかい? 三分待ってあげるから、迎えに来なさい」  その言葉にまさかと思って木村を見ると、彼は有無を言わさず通話を切っていた。 「あ、あのっ」  多分月成が来るのだろうと思ったら、何故か落ち着かなくなる。立ち上がろうとするのを、木村は視線で止めた。 (逃げられない……)  そう思って、英は何から逃げるんだ、と突っ込む。とにかく、月成に今会うのはよくない気がして、無駄と思いつつも隠れる場所を探してしまう。  しかし、英が辺りを見回したところで社長室のドアがノックされ、件の人物が入ってきてしまった。  英の体は石のように硬くなり、ソファーに座ったまま、床の一点を見つめるだけだ。 「ったく、世話の焼けるヤツだな」  月成は心底嫌そうに英の側までくる。木村が「光洋」と窘めたが、それで聞くようなら月成じゃない。さっき木村が座っていた場所に月成が座ると、英の顔を覗き込んでぶぶっと笑う。 「石みてぇ」 (あ……笑った)  英はなんだかほっとした。それで、あの視線を怖がっていたことに気付く。思ってみればあれは演技なのだから当たり前なのだが、今までの月成の態度からして、彼は笑うことが少なかったので、やっぱり自分の思い過ごしではないと英は思う。  そういえば最初の頃、月成は英を排除しようとしていたのだ、あの冷たい視線を何度も向けられているはずなのに、いつの間にそれが耐えられなくなってしまったのか。 (オレが弱くなった……?)  一度月成作品に出られて、懐に入れてもらったと思って安心していたのだろうか。 (うわ、恥ずかしい……)  知らず知らずいい気になっていた自分に気付き、頭を抱えたくなってくる。  心の中であれこれと考えて悶えていると、月成はいきなり頭を掻きまわしてきた。 「うわっ」 「社長、ちょっと二人にさせてくれ」  何をするんだ、と月成を睨むと、彼はいつになく真剣な眼差しで木村を見ていた。木村は困ったように英を見て、すぐに月成に視線を戻す。 「……約束は守ってくれよ」 「ああ」  二人にしか分からない会話をすると、木村は社長室を出ていった。 「あ、あああの、すみませんでした。それと、手を離してくれませんか」 「おい、なんだそのテンパりようは」  先ほどは髪をくしゃくしゃと掻きまわしていた月成が、今度はサラサラの英の髪の感触を楽しむように撫でている。落ち着かない英の様子を面白そうに眺める月成の視線は、何となく甘い。 (なんでだろ、ドキドキする)  英はその視線から顔を背けた。そして、そんな目をする月成に何故かホッとしている。 「さっきの稽古だが……」  英の肩が震えた。しかし、月成はそれをなだめるように背中を撫でる。 「お前にしちゃ合格点だ。だが、壁もドアも無視して逃げ出したのは減点だ」  月成は言葉を続ける。 「お前が傷付いたのは十分伝わったが、会場全員に分からせないと意味がない。ただ泣くだけじゃ、後ろの観客席には見えない」 「はい……」  舞台演技の鉄則はオーバーアクションだ。表情で伝えるテレビ演技とは違う。ダメ出しをもらったことに、英は何故か喜びを感じていた。 「……ったく。お前、俺のこと好きすぎだろ」 「はぁ?」  いきなりの月成の言葉に、反射的に彼を見る。彼の黒い瞳とぶつかって、顔が熱くなるのが分かった。 「本気で傷付いて泣くくらいなら、素直に認めろ、このツンデレ」 「ツン……」  反論しようと口を開くと、人差し指を唇に押し当てられる。 「ごまかすな。演技とリアルの区別がつきやすいんだよ、お前は。かと思えば時々とんでもなく惹きつけられる芝居をする。読めなくて、面白れぇ」  月成の言葉を聞きながら、英は「これは褒められているんだろうか」と疑いたくなる。しかし、最近は英を見る視線が、柔らかくなっていたことに今更ながら気付くと、彼の言うことは演技ではないことが分かってきた。  その変化は表情にも表れていたようで、月成は「おっ」と面白そうに笑う。 「やっとやる気になったか。じゃ、オカマの英がマスターに対してわざと書いていないセリフがある。言ってみろ」  我ながら単純だろ、と思うが、自分を凹ませるのもやる気にさせるのも、この人しかいないのだ。  だったら、思う存分振り回されてみても良いかもしれない。 『マスター。アタシ、マスターのこと好きよ』 「……合格だ」  月成は頬を寄せ、そこにキスをした。
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