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 幼さの残存が散らばる顔立ちに、驚きの色がくっきりと浮かびあがる。だが私の顔を見ると石にでも変えられるのか、すぐに俯いてしまった。  私も礼儀に沿って顔を背けた。彼は英語が喋れないのだ。この私の前では。  シャワーの音だけが室内に響いている。私は石鹸をつけたタオルで全身をこすりながら、そっと背後を窺った。彼の後ろ姿が奥の隅へと消えてゆく。裸になると、肉体の線の細さがいやが上にも目につく。なめらかな肩に、柔らかい腕、引き締まった腰に、伸びた手足。本当に少女のように華奢だ。東洋人の肉体は我々に比べると、どうしても見劣りしてしまうそうだが、彼はさらにひどい。ガラスの小瓶のように、強く握れば、粉々に砕けてしまいそうだ。  昔の恋人を思い出してしまった。彼の彫刻のように美しかった肉体と比べたら、なんと脆弱なのだろう。  シャワーの音が二つに増えた。それで我に返り、石鹸の泡を落とした。全身に巣食う疲労感も一緒に洗い流したかった。  しかしノズルをまわしてシャワーを止めても、さっぱりしたのは肉体だけだった。 「みんな、集合してくれ」  合宿の四日目、グラウンドで準備体操をした後、監督の前に整列した。 「昼まで、セットプレーの練習をする。今から呼ばれた順に、二手に分かれて欲しい」  監督は次々に名前を呼んでいった。私と一緒になったのは、バートン、ギル、スターン、エヴァレットらに、ストライカー二人、レインと日本人だ。 「アイ、あっちに行こうぜ」  すっかり仲が良くなったらしいレインが、気安げに肩を叩いて連れてゆく。  最初に私がコーナーキックを蹴ることになった。ライスコーチが白いライン際に立って、様子を観察している。私はボールを定位置に置き、誰に合わせるか考えた。  コーナーキックからのゴールを奪うのがうまかったのは、ピエールだった。彼はチャンスを逃さないストライカーだった。  私は水平よりもやや高くボールを蹴りあげた。詰めていた選手たちが一斉に動いた。そのなかで、小さな黒髪の選手がボールへ挨拶をするように足をあげた。  ボールはクロスバーの真上を飛んでいった。  私は腰に手をやり、ボールが消えた方を見やった。今のは、かなり正確な角度だった。他の選手であれば、ゴールを決めていたかもしれない。  日本人の彼は、芝生に尻餅をついた格好で、ボールの消えた方向を見上げている。コーチが彼に近づいていった。今のは、明らかに彼のシュートミスだ。 「じゃあ、次は僕が」  バートンが挙手をした。私と入れ違いにコーナーに立ち、ボールを足元に置く。私はゴールポストよりもやや右寄りに陣取った。目の前にスターンの岩のような背中が立ち塞がる。何がおかしいのか、こちらをチラチラと見て、にやけた笑いを浮かべている。  職人バートンは見事なコーナーキックをした。それにレインが頭であわせる。ヴァレッティの手をはじき、ボールは白い蜘蛛の巣へ吸い込まれた。 「やったぜ!!」  レインは無邪気にガッツポーズをつくる。試合中でも今のように決まれば、我々も文句はない。コーチも手を叩いて、頷いている。 「それじゃあ、次は俺か」  ギルが進み出た。 「さっきは何がおかしかったんだい?」  私は手前にいるスターンに、低く囁いた。すると肉の塊のような肩がやや盛りあがって、ノーザンプール自慢のディフェンダーは意外そうな横顔だけをこちらへ見せた。 「いやだってさ、お前があの子にボールをあわせるなんて思わなかったからさ」 「別に、彼にあわせたわけではないよ」  私は素っ気なく言った。  ギルがボールをコーナーに置いた。ゴール前に散らばる選手たちを一通り眺めて、どうするか決めたようだ。ダッシュするように前屈みになり、弾みをつけてボールを蹴る。  ボールは我々の上空を切り裂き、唸るように飛んだ。そのボールを足で蹴ったのは、私のコーナーキックに失敗した彼だった。  彼が蹴ったボールは、だがゴールポストとは違うあらぬ方向へ飛んでいってしまった。  彼は悔しそうにシューズの底で芝生を蹴ったが、すぐにその顔はコーナーへと動いた。ライスコーチがギルに近づき、注意をしている。ギルは両手を広げて、釈明するように首を横に振っている。  今のボールはあきらかに勢いが強かった。ゴール前でシュートを狙う選手へ向けてのコーナーキックではなかった。 「なんだよ、へったくそが!」  レインが毒づいている。  誰かが背後で小さく息をついた。振り返ると、エヴァレットだった。  ギルがゴール前に戻ってきた。私と目があうと、おどけるように首を傾げた。  日本人の彼は長身のミッドフィルダーがゴール前を横切り、右サイドまで歩いてゆく姿を、あとを辿るように見つめていた。両手は拳を握りしめていた。  その夜、食事を終えてから、トレーニングルームで軽く運動し、シャワールームへ向かった。その途中、宿舎の廊下を歩いていると、窓ガラスからグラウンドを走る人影が見えた。グラウンドは安全上、夜も照明がつけられている。  走っていたのは、彼だった。  大きくコーナーを曲がり、一定の速さで走っている。いつからそこにいるのかは知らないが、窓ガラス越しでも、一生懸命なのは伝わってきた。  私はしばらく眺めた。だが同じように走っていた友の姿を思い出し、顔を背けてその場を離れた。  二週間の合宿は、あっというまに過ぎてしまった。  最後の日の夜には、ささやかなパーティーが開かれた。毎年恒例の行事で、新しく加入した選手たちの歓迎会と、リーグ戦へ向けての団結式をあわせたものだ。毎日が練習づくめの合宿所では、唯一リラックスできるひと時でもある。だが合宿は終わっても、開幕戦までクラブハウスでの練習と数試合のプレシーズンマッチが控えているため、本当に地味で質素だった。だが監督やコーチたちはもとより、好き嫌いの激しいチームメイトたちも、このクラブパーティをそれなりに楽しんでいた。 「仕上がりは上々のようだね」  フランスの山脈から沸きでたという水をグラスに注いで、壁に寄りかかりながら一人口をつけていると、エヴァンスマネージャーがオレンジジュースを片手に近づいてきた。 「毎年おこなわれるこのパーティーで飲める水のおかげでしょう。おかげで蛙にでもなったような気分ですよ」 「良かったよ。その口も上々の仕上がりだ」  マネージャーは英国人らしく仕立ての良い背広を着ていた。クラブのフロントの一員としては隙のない身のこなしだが、どちらかといえば、金融街を駆け巡るビジネスマンと形容した方がしっくりとくる。ただ、その背広をユニフォームに着替えたら、昔のようにサッカー選手に戻れるだろう。その時代に鍛えた肉体は、今も健在なのだから。 「今期もクラブは優勝できそうかな。チームの司令塔である君の感触はどうだい?」 「悪くはないようですね」 「良くもないってことかい?」  エヴァンスマネージャーは頭の回転が風車よりも速い。 「ピエールがいなくなったのが、君には気に入らないのかな」 「選手の移籍に関しては、一介の選手が考えるべき事柄ではありません。私が考えなければならないのは、どうすればシュートを狙えるパスをうまく繋げるのか、それだけです」 「そうだね。いや、すまない」  マネージャーは苦笑して、オレンジシュースをひとくち飲んだ。 「君を怒らせるつもりはなかったんだ。でも、クラブの財政がね、私の良識を遥かに超えてしまって」 「何が聞きたいのですか?」  そろそろ部屋に帰ろうと思っていた。今夜は一人でいたかった。  マネージャーは自信が形作っている壮齢の容貌に罰の悪そうな表情を浮かべたが、話をはぐらかしはしなかった。
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