第2話

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第2話

 そう言われても、簡単に立ち上がるわけにはいかない。 ここで出て行けば、彼の言い分を全て認めたことになる。 それでも今は、出て行かなければならない。 彼に対抗するだけの材料を、私は持っていない。 震える手でバッグをつかんだ。 「今は帰ります。だけど、私にはあの大皿が、あなたの作品とは思えません!」  彼はじっと私を見下ろした。 「吉永さんが、それでもあの作品は自分の作ったものだと、あなた自身でそうおっしゃるのなら、誰も疑う人はいないでしょうね」 「えぇ。私はそれで満足なんですよ」  立ち上がり、彼に背を向ける。 早くここから抜け出したい。 勝手に涙があふれ出してしまう前に、自分が自分に負けてしまう前に。 一刻も早くここから出て行きたい!  逃げだそうとして、すっかり日の落ちたガラスドアの向こうに見つけたのは、ひょろりと背の高い卓己だった。 「こんばんは」  雨でも降り始めていたのか、卓己は閉じた傘の水滴を払うと、傘立てにそれをさす。 その場で濡れた服を気にするような仕草をした。 「お久しぶりです。安藤卓己です」  彼はゆっくりとした足取りで店内に入ると、吉永さんに片手を差し出した。 「卓己くん! 久しぶりだね。ご活躍の様子は、かねがねよく聞いてますよ」 「とんでもございません。吉永さんも、お元気そうでなによりです」  卓己が微笑む。 握手を交わし終わったそれを、すぐにポケットに突っ込んだ。 壁際に並ぶショーケースをのぞき見る。 「あぁ、いいものが揃ってますね。さすがです」  背中を丸め、その一つ一つをみて回る。 卓己は何をしに来たんだろう。 「何か気になるものでも、おありでしたか?」  吉永さんは卓己に声をかけた。 姿勢を戻した彼は、にこっと微笑む。 「えぇ。紗和子さんのお迎えに来ました」  そう言うと、卓己は私に向かって手を差し出した。 「ほら。一緒に帰ろう」  私は突然の彼の登場に状況が飲み込めなくて、じっと立ちすくんでいることしか出来ない。 「どうしたの? 帰らないの?」  伸ばした手を引っ込めた卓己は、耳元でささやく。 「ね、早く帰ろう」 「わ、私は……。吉永さんに用があって来たの!」 「どんな用事?」  返答に困って、吉永さんに視線を向けると、卓己も一緒に彼を振り返った。 吉永さんはさっきまでと打って変わった、とぼけた表情を見せる。 「いいえ。特に問題はございませんよ。もう解決しました」 「だって。紗和ちゃん。じゃあ帰ろっか」 「帰らない!」  ここまで来て、卓己に連れ帰られるわけにはいかない! 「こ、この人、うちのおじいちゃんの作品を、自分の作品だって偽って、オークションに出してたの!」 「……」 「だから、文句を言いに来たわけ!」  じっと私を見下ろす卓己の表情は、何一つ変わらない。 一切動じることのない彼に、逆に私がうろたえ始める。 「そ、それで! それで……。文句、言いに来た」 「文句は言えたの?」 「言った!」 「じゃあもうお終いだね」 「お、お終い?」 「うん。帰ろ」  もう一度手を伸ばした卓己に、私は激しく頭を横に振った。 「まだ帰りたくないの!」  そう言った私に、卓己はショーケースへ視線を戻した。 「ここに並んでいるのは、どれも吉永さんの作品ですよね」 「いいえ。そういうわけでもございませんよ」 「あはは。それはウソだ」  卓己はゆっくりと、一つ一つに視線を落とす。 作品横に置かれたキャプションには、制作者の名前と製作年が書かれていたが、そこに吉永さんの作家名である『矢沢映芳』は少ない。 「見る人が見れば、ちゃんと分かりますよ。ここに並んでいるのは、どれも同じ一人の人間の手で作った作品だって。それぞれに作者の個性というか、特徴みたいなものが出ている」  吉永さんの顔が、一瞬ムッと曇った。 「作風を変えたって、同じです。どれもみんな、素敵ですよ。これは全部、あなたの作品だ」  卓己は姿勢を戻すと、吉永さんに向かって微笑んだ。 「もっと自信を持てばいいのに。あなたの悪いクセは、すぐ後ろ向きになることだって、よく言われてたじゃないですか。あなたにはあなたの良さがあるから、あきらめずに続けなさいって。そうやって恭平さんから、よく言われてましたよね」  ガラスケースに触れていた卓己の手が、そこを離れた。 「自分をごまかしたり、卑下するようなことは必要ないんです。あなたはあなたのままで、十分評価されています。自分の作品が認められないのは、あなたの名前だからじゃない。他の人の名を使って自分を売ろうとしても、それがあなたの作品かそうでないかは、僕にはわかります。もちろん紗和子さんにも」  卓己はもう一度、にっこりと微笑んだ。 「あなたのことは、いつも気にして見ていますよ」  吉永さんはぐっと押し黙ったまま、横を向いた。卓己は私の手を取る。 「さぁ、もういいよ。帰ろう」  卓己に引かれ、店を後にする。 すっかり日の暮れた街には、小雨がぱらついていた。 「あぁ、傘を忘れてきちゃった」  卓己は今度は、その穏やかな笑顔を私に向けた。 「ま、いっか」  しっとりと雨に濡れた街を、卓己と手を繋ぎ歩く。 泣いている私を、彼は一度も慰めたり振り返ったりしなかった。 泣きながら歩く秋雨の上がった夜の街は、キラキラと全てが輝いて、繋がれた手は何よりも温かかった。
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