第3話

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第3話

 うちに戻って来た卓己は、玄関まで来た途端、いつものモジモジを始める。 「……。ね、ねぇ、本当に、中に入っちゃって、い……いい、の?」 「いつも入ってるじゃない」 「う、うん……」  ようやく靴を脱いで、リビングに入る。 私が冷蔵庫に買ってきたお茶とかおやつとかを入れ終わるまで、彼は玄関から入ってきたリビングの入り口で、じっとオロオロと立っていた。 「何してんの? プリン、食べるんじゃなかったの?」 「プリン……は、や、やっぱり、紗和ちゃんにあげる」  卓己はいつも、言いたいことを私に言えない。 だけどそれは私も同じことだったんだと、いま気がついた。 「今日は! ……。その、ありがと」 「え! なにが?」 「た、助けてくれて」  卓己はぽかんと口を開けたまま私を見た後で、その目を伏せた。 「僕……じゃない。颯斗さんだよ。仕事で忙しくて、自分は行けないから、紗和ちゃんを助けてあげてって、連絡が来た。なんのことだか分からなかったけど、詳しいことも、全部メールに書いてあった」  卓己はうなだれたまま、横を向く。 「僕、の……方こそ、あ、謝らないと。いつ、も、勝手に、紗和ちゃんの気持ちも考えずに、自分のことばかり優先してたのは……。お、俺の方だったなって……」  卓己はそこから、一歩後ろに後ずさった。 「紗和ちゃん……は、あの人のことが、好きなんだと、思った。だから……。どうしていいのか、分からなくて。混乱してて。それでも紗和ちゃんがあの人を選ぶなら、もうどうしようもないし……」  卓己は瞳いっぱいに潤んだ目を、私に向けた。 「ずっとずっと、気になってた。紗和ちゃんが、俺以外の人と付き合うことになるなんて、想像もしてなかった。だけどそれが、間違いだったんだ」 「私別に、佐山CMOのこと好きじゃないよ」 「でも、嫌いでもないでしょ」  そう聞かれると、返事に困る。 黙り込んだ私の腕に、卓己の手が触れた。 「ねぇ、こっちに来て」  二階のアトリエに入る。 真っ暗な部屋に、卓己はパチリと灯りをつけた。 「何にもなくなっちゃったね」  卓己は知っている。 この部屋におじいちゃんがいたことを。 この場所が、どれだけにぎやかで楽しかったのかを、知っている。 今は静かなこの家が、日々尋ねてくる人たちで溢れ、父も母も健在で、私は今よりもずっと素直で自由だった。 「だけどさ、それは紗和ちゃんのせいじゃないでしょ?」  私は取り戻したい。 あの頃を。あの時間を。 失ってしまったものを全て取り戻せるんだと信じていなければ、怖くて息も出来ない。 「おじいちゃんの作品を全部取り戻すことは、無理だよ。あきらめよう」  涙があふれ出す。 誰よりも一番自分が認めたくなくて、でも誰かに言ってほしくて、私がずっと待ち望んでいた言葉をようやく言ってくれたのは、卓己だった。 「その代わりに、さ」  卓己は繋いだ手を握りしめたまま、私を見つめた。 「ここに、俺の作品を置いちゃダメ? これからはさ、俺と紗和ちゃんの思い出の品を、一緒に置いていこうよ」  泣き顔なんて、きっと卓己にしてみれば見飽きたものだ。 それでも私は、ボロボロあふれ出すそれを止められない。 返事をしなくてはいけないと分かっているけど、どうしても体がいうことをきかない。 「それじゃダメ……かな。ね、俺はそうしたい。から、そうしよう?」  卓己に肩を抱き寄せられ、そのまま身を任せた。 背に回った彼の腕が、ぎゅっと私を抱きしめる。 「ね、いいでしょ?」  うなずいた私の耳に、卓己の頬が触れた。 「よかった。いいよって言ってくれて」  しがみつくように両腕を彼の後ろに回し、その背を握りしめる。 泣きじゃくる私のこめかみに、卓己の唇が触れた。
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