本文

5/42
前へ
/43ページ
次へ
 翔真が車と衝突して、入院することになった。  原因は、自分だった。  事故の後はよく覚えていない。  ただ茫然と立ち尽くし、目の前の信号機を見つめていた。  麗奈と流星が傍に来て、それから何かを言われた気がする。  時間が経つと救急車やパトカーの音がしていた。  流星は気づけばいなくなっていて、麗奈だけが傍にいた。麗奈と手を繋いで家に帰ったことは記憶にある。  麗奈は祖母と話をしていた。  何を話していたかは知らない。三人でテーブルを囲んでいたけれど、話していたのは二人だけ。  祖母に何かを聞かれたような気がするが、上の空で何と返事をしたのか覚えていない。  二人が話し終えると祖母は家を出て行った。どこへ行ったかは知らない。  祖母がいない間、ずっと麗奈が隣にいた気がする。  途中で麗奈がおにぎりを作ってくれた。差し出されたので、取り敢えず食べた。中身は多分梅だった。いや、昆布だったかもしれない。  祖母が帰ってくると、麗奈が帰って行った。  祖母は何かを言うわけでもなく、ただ一言「お風呂に入りなさい」と言っていた。それは何故かしっかりと覚えている。  湯を張った浴槽に浸かると、今日の事を思い出した。  振り返った自分。傍にあった翔真の顔。放り投げられて叩きつけられた身体。耳障りなブレーキ音。翔真に衝突する黒い車。吹っ飛ばされる翔真の身体。ボールのように転がり、コンクリートの壁にぶつかる翔真の足。倒れ込む翔真の姿。信号が青に変わる際のカッコーの音。翔真に集まる人の群れ。救急車とパトカーのサイレン。  あぁ、そうだ。  翔真に守られ擦り傷ができた自分と、車に衝突した翔真。  そうだった、翔真に守られたから、今、湯に浸かっている。  途端に呼吸が荒くなり、目から湯ではないものが垂れ流れる。  ひゅーひゅーと喉の奥から虫が鳴くように空気が出る。 「うぇっ」  何かを吐き出しそうになる。  何も出ない。 「翔真、翔真、翔真、翔真」  どうしよう。  今、翔真は生きているのだろうか。  死んでしまったらどうしよう。  このまま一生会えなかったらどうしよう。  どうしてあの時走ってしまったんだろう。どうしてあの時許さなかったんだろう。どうしてあの時前を見なかったんだろう。どうしてあの時意地を張ったんだろう。どうしてあの時、どうして。 「う、え、おぇ」  流星はきっと、翔真と一緒に救急車に乗ったのだろう。  呆然と立ち尽くす友達を麗奈は放っておくことができず、家まで送ってくれたのだ。  祖母はきっと、翔真のいる病院へ行ったのだろう。  自分だけ何もせず、ただ温かい湯の中にいる。  翔真を心配して救急車に同乗することをしなかった。救急車に乗ってどこへ行ったかなんて、今まで考えもしなかった。  思考を放棄し、ロボットのように体だけ動いていた。湯によって壊れたロボットは、思い出した。 「うわああああああん」  子どものように泣いた。  浴室に響く泣き声は、台所にいる祖母まで届かないだろう。  無駄に広い家がこの時ばかりは都合良かった。  最悪の結末ばかりが頭を過り、涙は次から次へとあふれ出る。  三人に合わせる顔がない。  好きな人を自分が殺してしまうかもしれない。  好きな人と二度と会えないかもしれない。  その恐怖に勝つことができず、見えない明日に怯える。  車と衝突した人間はどれくらいの割合で死んでいるのだろう。  頭の中はパニックだった。  何故あの時轢かれたのが自分ではなかったのだろう。  前を向いていたら、目の前にある信号機が赤く光っていることに気付いたはずだ。  きっと今も、翔真は苦しい思いをしているに違いない。  そんな時に、自分は湯の中で寛いでいる。  浴槽から抜け出し、シャワーを浴びようと手に取った。  温度は四十度にしてしてあったが、一番冷たい温度に設定する。  冷たい水を頭から浴び、寒さに震える。  こんなもの、なんてことはない。  翔真に比べたら、冷たい水を浴びるくらいなんてことはない。  自分でも何故こんな奇行に走ったのか分からない。  ただ、自分が無事でいることが納得できなかった。  何かしないと、気が済まなかった。  浴室に入って二時間近くなった頃、祖母によって奇行から解放された。  呆れた祖母の言葉と表情は鋭く胸を突いた。  翌日の日曜日、翔真と映画館へ行く予定だった日、当然と言うべきか風邪をひいて寝込んだ。  麗奈が様子を見に来てくれたようだが、合わせる顔はなく、部屋には入らせなかった。  祖母は幾度か部屋に入り、食事や着替えの世話をしてくれた。  お互い終始無言だった。
/43ページ

最初のコメントを投稿しよう!

39人が本棚に入れています
本棚に追加