6人が本棚に入れています
本棚に追加
第1話 トイレとビンタ
「異議ありッ!」
女弁護士は机を叩きながら立ち上がって高らかに異議を唱える。
綺麗に整った濡鴉の長髪にエメラルドグリーンの瞳と薄桃の唇を持つ彼女の名は、上佐間鷹緒。
前日鏡で何度も練習したキメ顔で法廷を見回す。
「我々はすべての証言を聞き届けましたが、一つの結論にたどり着いたと思います!……被告人が痴漢行為に及んだなんてありえません」
「それを判断するのは私の仕」
「みなさんご存知のように!」
これは法廷ではなく、鷹緒のワンマンショーであるかのような態度に裁判官も流石に顔を歪めた。
鷹緒は演説でもするかのように被告人の席に近づく。
「被告人は身長180cm超えで、若くして事業を成功させたことで年収1億はくだらない。顔も性格も完璧な上にユーモアセンスも高い」
「弁護人の主観が入ってますよ」
「この完璧な私ですら心が動いてしまうほどでした……ゴホン。とにかくこんな彼女を作ろうと思えば何十人も作れるような男が、老婆に痴漢なんてするはずがありません!」
「そうか、お前そんなに俺のことが好きなのか!」
痴漢容疑で逮捕された被告人は興奮した様子で鷹緒に抱きつく。
「ぎゃあああああああ!離してぅえええええええええええ!!!」
「うわぁあああああああああ!!」
「お客様!お客様落ち着いて!着きましたよ」
まぶたを開くとそこは広々とした法廷ではなく、タクシーの後部座席だった。
外を覗くと目的地であるタツミ中央ビルに着いたみたい。
鷹緒の所属するBK法律事務所はこのビルの15階にある。
「なんだ…夢か。はいこれ、お代ね」
「お客様、1万円多いよこれ」
「口止め料それ、私が絶叫した姿の記憶は墓場まで持っていきなさいよね」
「わっかりやした!ありがとうございます!」
上佐間鷹緒は完璧な女だが、完璧な人間ではない。
不都合なことはお金で揉み消す、そうすれば完璧な人間になれる…それが彼女のポリシー。
警察などの業界にコネを持つ社長のおかげで彼女のポリシーは保たれている。
タン、タン、タンとピンヒールで音を鳴らしながらエレベーターに乗り込む。
自分の美貌を見せびらかすのが彼女の生きがい、だからピンヒールは彼女の最愛の靴である。
長期休暇で2ヶ月間も旅行に行ってたが、エレベーターの15階ボタンを押す速さは以前とちっとも変わってない。
「へいへい!お待ちください!」
「俺も俺も入らせて」
「すんませんねー!お嬢ちゃん!」
このビルに出入りするはずのないタンクトップ男3人が鷹緒のエレベーターに乗り込んだ。
男たちは首から足の指まで余すとこなく鍛えられており、そんな筋肉の塊はただその場にいるだけで温度を上昇させた。
「(私のいない間で客層が随分と変わったわね) あ、あの…みなさん何階ですか?」
「15階っす!あれ、お姉さんもっすか?」
「まじで?随分と細いけど…」
「あれ?もしかしてみなさんウチのお客さんですかね…」
15階に到着すると見知った受付スペースには受付嬢のナナミがおらず、代わりにゴリマッチョ軍団と同じかそれ以上のゴリマッチョ男が座っていた。
「あれ、お姉さんもうちのジムに入会します?」
「え…ジム!?ここ15階ですよね?」
「はい、15階です!」
「………えっと、ここって前はBK法律事務所でしたよね?」
「あ〜BK法律事務所ね。あそこ経営難で13階に引越しましたよ」
まさか自分の旅行中に会社が引っ越したなんて、鷹緒はエースである自分が連絡の一つも貰えてないことに憤りながら13階へ向かう。
原因はわかっている。
社長である場加黒樹は昔から金使いが荒い男だったが、ついに会社の金まで手を出したのだろう。
「会ったらタダじゃおかないんだから!」
13階に着いた瞬間、ペンキや塗料のにおいが鼻をツンと刺激する。
「もう!スーツがペンキ臭くなったらどうすんのよ!」
仕事人間の鷹緒は帰国して真っ先に向かったのが職場なのに、なぜそんな献身的な美少女弁護士(29歳)がこんな目に遭わないといけないんだと怒り増すばかり。
受付からオフィスまで内装工事の業者さんだらけで、知り合いが1人も居ない。
「あ!鷹緒ちゃん!帰ってきたの?」
「雅美さ〜ん!」
鷹緒の背後から声かけてきたのは社長秘書の下根田雅美。
この会社の初期からいる従業員で、多国語に精通してる上に面倒見が良い。鷹緒は10歳年上の彼女を姉のように慕っている。
職場環境の変化が大きすぎて、知り合いから声をかけられただけで安心感が段違い。
「雅美さん!私がいない間何があったの!?まさか今後はこんな狭苦しいオフィスで仕事しろとか言わないよね?」
「もう全部BKのせいよ!はぁ…オフィスが狭くなっただけじゃないわよ。リストラ者も大量に出たからね。今後あなたの部屋はここを使ってね」
「ウッソでしょ!?前の広さの4分の1しかない上に、街を一望できる窓があったんですけど!!知らないからね、ここに窓開けてよね!」
「その裏はトイレだから無理」
「そ、そんなぁ…」
「ちょいちょいちょい!寄りかかっちゃダメ!まだペンキ乾いてないのよ」
「うわぁああああああああ!私のスカートが汚れちゃったぁ!!」
溜め息ついてちょっと壁に寄りかかったせいで、お気に入りの白灰のスーツが茶色のペンキで汚れてしまった。
太ももあたりについた汚れを見て、雅美は鷹緒の背を押してトイレで洗ってくるように勧める。
不運続きの出勤日はもうこれ勘弁してください。
神を信じてないくせに鷹緒は全身全霊で祈りを捧げた。
「もぉう……この汚れ、落ちるよね…お気に入りだったのに…」
お尻と右足の位置を上げて鏡でスカートの汚れを確認する。
いくら拭いても綺麗にならないせいで鷹緒は若干絶望し始めた。
「あの、すみません。何してるんですか?」
トイレにいるはずなのに何故か背後から男に声かけられた。
振り向くとそこにはボサボサ頭にカット具合が中途半端なヒゲを生やした若い男がいる。彼は右脇で競馬情報が載っている新聞を挟んでおり、さらには両手でチャックをいじりながら鷹緒を見つめている。
「きゃあああああ!痴漢ぁあああ!」
すかさず右頬に入れたビンタは男にとって、その衝撃はまさしく春雷の如し。
衝撃で転ぶ男の目に映ったのは、男子トイレのマークだった。
「まぁまぁ、誤解だったってことで大丈夫?」
心地良い低さの声の主は社長の場加黒樹、通称BK。
部下の仲裁をするときはいつもこのような温和さを装う。
「ボス、ビンタされたのは構わない。問題はなぜかビンタされた俺が悪いみたいな雰囲気になってることです。まぁ、確かに俺がちょっと世間知らずでしたよね…男の分際で男のトイレに入っちゃったんですから、でしょ?」
「確かに彼は女子トイレに入ってないようだけど……」
BKは鷹緒の方に向く。優柔不断な男である。
「BK、私は今日初めてこの新しい事務所に来たんですよ。男女トイレがあんな変な分かれ方してるなんて知らないんですよ!」
「そ、それもそうだよね…2ヶ月も居なかったらわからないよね」
BKは男の方に向き直す。
「そうですね〜俺が悪いですよね〜俺が全力で彼女の手のひらに顔を当てに行っちゃったんですもんねぇ〜」
「まぁまぁ、ちょっとやり過ぎちゃった感は否めないよね……」
「想像してみてください、トイレで知らない男がチャック弄りながら近づいてきたんですよ。怖くなるに決まってるじゃないですか!」
「確かにこわいよね」
「何言ってるかわかってます?一人の男が男子トイレでチャックを閉めてるだけですよ」
「正常だよね…」
「………この上佐間鷹緒は筋を通す完璧な女。わかった、私が悪かった。申し訳ございませーんでしたぁー…これで満足?」
「はーい!大満足ですぅーー!」
「(このクソ上司、ムカつく!!!)」
「(このクソ部下、ムカつく!!!)」
男の名は下根田楽人。
これはこの二人の戦いの幕開けにすぎず、この物語は二人の激戦の記録である。
最初のコメントを投稿しよう!