序章

1/2
前へ
/9ページ
次へ

序章

 時は大正三十二年。とある路地の片隅で、男は虚空を見上げた。 (血を吸われるってのは、こういうもんなんだな)  鈴蘭灯の明かりには、秋の虫がたかっている。二人のいる路地には、街灯の乏しい明かりが直線上に差し込んでいた。  黒の着流しの男は、洋風屋敷のレンガの壁に背を預け、これまで肺に溜まっていた淀んだ空気を吐き出す。 「……痛くは、ないんだな」 「僕は……されたことがないので分かりません」 「へえ」  着流しの男の正面にいたのは、白いスタンドカラーシャツを身にまとった青白い顔の華奢な男。 「惣介(そうすけ)、さん……」 「あん? ……これで、満足か?」  惣介と呼ばれた着流しの男は、けだるげにシャツの男をみやった。 しかしすぐに自分の首筋に吸い付かれ、視線を鈴蘭灯に向ける。 「……もう少し、欲しいです」 「いくらでもやるよ」  シャツの男が自分の首筋に舌を這わせたときは、背筋がぞくりとした。  さっきまでこの男の体が熱く火照っていたから、向かい合って触れ合う部分から汗ばんでくる。 「……こういうのはお前、死んだ人間の血を飲んだらいいんじゃないか」 「死んだ人間の血は、まずくて飲めません。あなたの血からは、煙草の匂いがする」 「いつも吸ってるからな」 「僕、煙草が嫌いなんです。契約を続けたいなら、煙草は、やめてください」 「……分かったよ」  はぁ、と熱い息を吐きだして、シャツの男が惣介を見た。  近い距離で視線が合い、はっきりとした二重の茶色い瞳が揺れる。それを見た惣介は、自分の脈が速くなったのが分かった。 「なら、これで契約完了ってことで、いいか?」 「……ええ」  男は、自分が先程まで唇を這わせていた首筋をいたわるように指で撫でた。かすかに血がついていて、惣介は自分から血を吸っていたのが現実なのだとようやく理解できた気がした。 「すみません、もらいすぎたかも」 「別に、どれだけでもやるよ。そのぶん、しっかりと働いてもらうけどな」 「そういう言い方はやめてください。手を貸すだけです」 「どっちだっていいよ」  惣介はそう言って、自分の口角が上がるのが分かった。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加