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野崎低事件。
翌日、惣介は夕方から自分のかつての勤め先、柳川警察署に出向いていた。
「頼むよ、お前にしか頼めないんだ」
「嫌だね。いなくなってくれてせいせいしたんだ。なんでお前がウチを辞めてからも世話見てやんなきゃなんねーんだよ」
かつての同僚、中山に軽蔑の眼差しを向けられながらも、惣介は必死にその肩を掴む。
「そこをなんとか! 絶対、お前の手柄にしてやるから。俺、自白させんのもうまかっただろ?」
「俺はお前のように証拠を集めて自白、なんて回りくどいやり方はしない」
「けど、冤罪になることもあるし、証拠を揃えて本人が自分の罪を認めざるを得なくなる方が確実だろ」
「その証拠を集めて自白を促すのがお前の言う『探偵』ってやつの仕事なら、俺は必要としてない」
「そう言うなって――」
踵を返して事務所内へ入っていこうとする中山に、もうひと声かけ用とした時――事務所に入ってきた上司の声が響いた。
「おい、二丁目の野崎邸で事件だ。行くぞ」
「はい! よし、中山行くぞ!」
「おいッ! 惣介、お前――ッ!」
中山に襟首を掴まれながらも、惣介は上司のあとについて現場へと急行した。
二丁目にある野崎低は、この家の主、野崎 小次郎が建てた洋風屋敷だった。派出所から先に急行していた巡査から話を聞くと、前の大戦で武器を売り、夫婦二人一代で富を築き上げたらしい。
殺害されたのは野崎 小次郎の妻、久(ひさ)。洋間に集まった容疑者は四人だった。
容疑者は小次郎四十九歳、そしてその愛人、沖津 容子(おきつ ようこ)二十六歳、小次郎の息子である良輔(りょうすけ)二十三歳、そして下女の島袋 金江(しまぶくろ かな)三十三歳である。
「おい惣介。お前、本当に俺の邪魔するんじゃないぞ」
「分かってるよ。あくまでお前の捜査の手助けするだけだ。それで手柄となったら、代わりに少しこれをもらう」
惣介は袖の下に隠した手で小銭型を作った。
中山はいつも昇進を第一に考えている男である。現に、何人かの部下に金をやって、自分の手柄のように上へ報告しているところも、現役の際に見ている。
「……ふん、忌々しい」
「俺はただ、金が欲しいだけだ。そのためなら、なんだってやるさ」
苦い顔で自分を睨む中山に笑みを見せてから、惣介は死体の隣にしゃがみこんだ。警察が下女から聞いた話では、愛人である容子と小次郎の仲が近づくたびに、妻とは喧嘩が増えたという。
(死体の指先に皮膚片……殺害時に争った跡か? 凶器は刃物で、頸動脈を何度が切られている。不慣れなためか……)
見回すと一人、小次郎の手首に包帯が巻かれているのが見えた。
(まだ巻いてから時間が経ってないな。糊もきいている。あの傷跡が引っかき傷であれば可能性はあるが……確固たる証拠がない)
惣介は現場である洋間を離れ、屋敷の外へ出た。鈴蘭灯が、屋敷の高い塀を照らしており、惣介は屋敷の周囲を一周回ろうと歩を進める。
(外部犯の可能性もなくはないが……実際、塀の高いこの屋敷に侵入するのは難しいだろうな。服を着替えずに塀をよじ登れば、壁に返り血がつくはずだし……着替えたのなら、その服がまだこの屋敷周辺に残っているはず)
思考にふけっていると、ふらり、と眼の前に人影が見えた。隣の屋敷から出てきた、シャツを着た華奢な男が路地の奥に入って咳き込んでいるらしい。
「あんた。大丈夫か?」
つい他人に関心を持ってしまう惣介の悪い癖である。惣介は壁に手をつき嗚咽を繰り返す男に近寄ると、肩に優しく手をかけた。
「……」
振り向いたのは、彫刻のように目鼻立ちのはっきりとした、青白い頬の男であった。
警戒しているという態度を無礼なほど全面に出してくるが、その男の額には脂汗が浮かんでいる。
「具合が悪いのか?」
「……誰ですか、あなた」
「いや、別に……名乗るほどでもねぇんだが――」
明かりに照らされて、ようやく口元が血で濡れているのが分かった。
「お前、それ……血だろ?」
吐血しているのかと地面を見るが、血の染みはなかった。咳き込んでいたことを考えれば、いくらか血が落ちていてもおかしくない。
(唇が切れているだけか……?)
状況を整理しようとしたその瞬間、どこからか何人かの足音と、警察が夜の調査や巡回用に使っているランプの明かりが近づいてきた。
「ちょっと、こっちへ」
「おいっ……!」
男に手首を惹かれ、惣介も路地の物陰に隠れる形となった。状況がつかめずに男の方を見ると、しーっ、と口元に指を当てて惣介にも声を出さないよう協力してほしいと言っているらしい。
(なんで俺まで……)
納得いかない状況だが、男は耳を澄ませ、警察たちが巡回しているのをやり過ごそうとしている。
静かにしている間、惣介は男の横顔を見た。
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