2人が本棚に入れています
本棚に追加
もう馬車も通らない、三日月の真夜中。
シルクのガウンを羽織って髪をとかしてたら、騒々しくドアがひらいた。
「リーザ、帰ったぞ! いい子にしてたか」
戸口でわめき散らすのは、すっかり酔っぱらった大男。あたしのご主人さまだ。
「おかえりなさい、ヒューゴ!」
あたしは駆け寄って、ヒゲだらけの顔にキスをそそぐ。ワインのにおいで窒息しそう。
「お仕事お疲れさま。ずいぶん盛りあがったみたいね、帰ってこないんじゃないかと思った」
「バカ言え、お前を忘れるもんか。女房のツラは夢にも見たくねえが」
「やめて、奥さんのこと話しちゃイヤ」
「わかったわかった。ほらよ、おみやげだ」
彼は赤ら顔で笑い、平べったい包みを押しつけてくる。
布をほどくと、銀色がピカッとかがやいて、まばたきするあたしの顔を映し出した。
「鏡? あたしに?」
「金返せねえってほざく客がいてな、銀細工の工房を根こそぎ差し押さえたんだ。いちばんマシなブツを持ってきたぜ」
得意げなヒューゴだけど、その鏡はひたすら古臭かった。大きさは中途半端だし、スタンドの角度が調節できないし、薔薇のかざりもわざとらしい。
ぜんぜん好みじゃない。正直いらない。
まあでもあたし愛人歴長いから、いろいろ慣れてる。無邪気な笑顔をつくって甘い声をあげた。
「わあ素敵、ちょうどこういうの欲しかったの! ヒューゴすごーい、愛してるっ」
「よしよし、かわいいやつだ」
ってお尻に伸びてきた手をつかまえて、彼をベッドにほうりこむ。倒れこんだところを布団でぐるぐる巻いたら動かなくなった。これくらい酔いつぶれてくれると相手しなくていいから楽。
「いっちょあがり! さて、おやすみメイクしよっと。新しいクリームどうかな、この前のいまいちで即捨てたんだよねー」
あたしはにっこりして、自分の聖域・ドレッサーにむきなおった。
あたしの生きがいは、思いっきりおしゃれしたり、きれいなものを集めること。高級コスメもドレスも靴もアクセサリーも、ぜんぶ大好き。
で、すごくお金がかかる趣味だから、てっとりばやく愛人やってる。
十五才のときから何人も男を乗り捨ててきた。ヒューゴはかなり上玉だ。法外な利子と恐喝すれすれの取立てのせいで「地獄の金貸し男」って陰口たたかれてるのも気にならない。
お客の破産とか一家離散とかのニュースも、ふーんって感じ。誰が苦しんだって関係ない。あたしにとってヒューゴは、稼げて頼れる最高の男だ。
「センスはちょっとアレだけどね。どうなの、この鏡?」
あたしは謎のプレゼントをのぞきこんで笑った。
自慢の顔が微笑みかけてくる。はち切れそうな若さと美貌。お手入れした肌がしっとりキラキラして、やったーあのクリーム大当たり!
勝利の快感に酔った、そのとき。
「あっ!?」
鏡の中のあたしの顔が、いきなり変わりはじめた。
「え、嘘、やだ」
びっくりして頬にさわってみたけど、現実のあたしは変化なし。異変は鏡の中で起きてる。誰かの姿がどんどん浮かびあがっていって……
宝石みたいなブルーの瞳が、そこにあった。
若い男の、ななめから見た顔。どこか遠くをながめてる。高い鼻すじ、上品に閉じた口。細い輪郭に男の子っぽさが残っててドキッとした。
束ねた髪は波うつ亜麻色で、シャツから伸びた首がまぶしい。あたしより美肌。
あーこれは美麗すぎる、作り物でしょ。
って思った瞬間に顔がこっちむいて、あたしと目があった。
たしかにあった。
絶対あった、ほんと! 気のせいじゃない! なんで必死になってんだろうあたし。
ちょっと冷静になったとたん、彼の姿がボヤッとにじんだ。
「待ってよ貴公子さま、行かないで!」
あたしの叫びを無視して、鏡はただの鏡に戻った。
放心状態の自分と見つめあう。ひとりごとが震えた。
「す、素敵な人……」
あんなのぜったい貴族だし。シャツの衿がフリフリしてたし似合ってたし。うしろでいびきかいてるおっさん(ヒューゴ)とか完全に過去になった。
「今のどういう仕掛けよ。どうやったらあの人に会えるのっ」
鏡を手にとろうとして、あることに気づく。
「あれ、指輪どこやったっけ」
大きなサファイアのついたお気に入り。はずしてトレーに置いてたのに、床にも落ちてない。重いやつだから簡単に転がってったりしないはず。
あたしはハッと鏡をにらんだ。
「もしかして、あんたが盗ったの? タダじゃ見せないってことね」
宝石箱からアクセサリーを引っぱりだして、鏡の前にたたきつける。
思ったとおり、愛しの彼の横顔が浮かんできた。
長い髪をほどいて、さっきよりくつろいでる。背景ははっきりしないけどきっと自宅だ。ひとりきりみたい、よかった。
ドキドキして見入ってると、彼が身を起こして、ロウソクの火に顔を近づけた。
「あ……」
まだ消さないで。
あたしは思わず手を伸ばした。でも、なにもとどかない。彼がふっと息を吹きかけて、鏡のむこうが暗くなった。
すんなりした唇の動きが心に焼きつき、その夜あたしは眠れなかった。
最初のコメントを投稿しよう!