一輪目『現実の恋とは残酷なもの』

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 「ふふふ、いいのかい? ゆかりちゃんのように綺麗な子なら、僕は歓迎するけど」  「伊佐田君なら、私いいよ」  静粛で神聖な春に落ちるは甘く暗い衝動に、身を任せようとする一組の男女学生。  雅の存在にもやはりまったく気付いていない様子で、二人は随分雲行きの怪しい展開へ流れようとしている。  一方、雅の双眸(そうぼう)を焦がしているのは決して、バカップルにあてられた憐れな嫉妬でも惨めな劣等感でもない。  春陽を映す湖と桜吹雪に包まれながら、人目も憚らずに絡み合う二人。  紅桜よりも赤く妖艶な双方の唇が、ゆっくり触れ合おうとする。  艶やかで剣呑な光景に痺れを切らした雅は、ついに二人のもとへ一直線に駆け出そうとした。 「おっと」 「きゃ……!? な、何?」  甘々と逢引きを交わすカップルめがけて、猛スピードで飛んできた障害物。  しかし、いち早く気付いた伊佐田は、腕に抱いている女子を庇うように姿勢を低くし、障害物を避けた。  二人に向かって猛波の勢いで飛んできたのは、一つの缶。しかも熱々の中身入りだ。  自分達を突如襲った障害物に、相方の女子が涙目で狼狽しているのを余所に、伊佐田は涼しげな表情のまま。  一方、二人から離れた場所で仁王立ちしている雅も、唖然とまなじりを決していた。  たかが缶コーヒーとはいえ、本気のソフトボール投げのごとき猛スピードで人間の頭部に当たれば、脳震盪等の大怪我に繋がる。  理知的な常識人と自負する雅は、いくら智治が憎たらしい対象とはいえ、そんな危険を冒す真似はしない。  つまり、キャンパス内の人気のない中庭で逢引き中のカップル二人を襲撃した正体は――。  「……何? またあなたなの? 往生際が悪いわよ? いい加減諦めれば?」  「アンタに言われたくないわよ、この泥棒猫!」  「なんですって!? 二十五過ぎのオバサンが!」  中庭を囲う雑木林の中から現れたのは、別の女子大生。  こちらも、スポーツで鍛え上げられたしなやかな肉体美、と明るく華やかなエネルギーに満ちた美人だ。  とはいえ、スポーツ系美人の彼女は、伊佐田達に缶コーヒーを投げつけてきた張本人。  それだけに、伊佐田に庇われた相方を睨む彼女の目付きは、炉に焼べられた刃のように鋭く、おどろおどろしい憎悪に燃え満ちている。  一方、逢引きを妨害された智治の相方も、敵対者に引けを取らない鋭い眼差しで、負けじと睨み返す。  二つの睥睨が宙で衝突したのを合図に、火槍を投げつけ合うような女同士の壮絶な戦いが幕開けた。  「こんな人気のない所で伊佐田君を誘惑するなんて、アンタも相当のビッチじゃない」  「あら、負け犬の遠吠えってやつかしら?」  「開き直るんじゃないわよ、この尻軽ビッチ猫が! 所詮それがあんたの本性でしょう!?」  「好き放題言わせておけば、付け上がりやがってっ。ええ、でも人の逢引きを覗き込んだうえに邪魔する品性の欠片もないアンタと比べたら数百倍マシだと思うけれど?」  「なんですって!」 くそっ、やはり始まってしまったのか、。  というか君、智治(ヤツ)がベタ褒めしていた、桜のように可憐で奥ゆかしい面影は、一体どこへ消え去った?  愛憎と怨嗟を(ただ)れさせた美女同士の熾烈な口論。  純情可憐な皮を剥ぎ捨て、本性むき出しで燃え(たぎ)る憎悪に身を任せる双方に、さすがの雅も尻込みしそうになる。  一方苛烈な罵り合いを繰り広げる美女二人を前に、元凶といえる伊佐田は二人を制止する気配すらない。  むしろ弧を描く唇に愉悦すら滲ませ、異様に生温かい眼差しで、激しい口論の行く末を見守るばかり。  二人の美女が自分を巡って壮大に言い争っているにも関わらず、止めもせずに平然と眺める男の無神経さが、たじろいでいた雅の堪忍袋の緒を断ち切った。  「いい加減にせんか! この大馬鹿ド阿呆がっ」  「!? ちょっとアンタ何!?」  「そうよ! 今は取り込み中……「黙れ――。用があるのは、この男だけだ。ここで貴様らに喚かれても不愉快極まりない!」  「何ですって……「はいはーい、そこまでにしとこーか。ゆかりちゃん、千春さん」  炎輪に飛び込む猫のごとき果敢な勢いで女の口論に割り入った雅へ、女子二人は心底うっとおしそうに激昂する。  しかし、雅の有無を言わさない剣幕と苦言、さらに飄然と二人をなだめる伊佐田に、さすがの二人もたじろいだ。 ・
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