『蕾と芽』

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『蕾と芽』

 冷たくて、寒い。  氷のような冷たさが、体温を奪い侵していく。  息ができない、苦しい。  透明に濡れた脅威が、一秒ごとに呼吸を蹂躙していく。  体から、力が抜けていく。  全身は絡め囚われたように重く、血液も意識も凍結していくような感覚。  怖い、助けなきゃ。  胸に抱いて小さく愛おしい命だけは、決して離してはいけない。  咲き始めの春に未練を託す、冷たく澄んだ冬の名残風(なごりかぜ)――未練たらしい私とよく似ているせいか、親近感を寄せてしまったようだ。  舞い降りてきた花冷えの猛風によって、体のコントロールを一瞬奪われた。  愕然と見開かれた瞳に、水膜越しに青い空を映した頃には、既に手遅れだった。  怖い、苦しい、痛い――ああ、でも、もういいの。  私、死ぬの?――ええ、そうよ。  生命活動を謳う体が告げた宣告に、少女の胸に恐怖と絶望が立ち込める。  しかし、体の代わりに今度は消失寸前の意識が、少女を励ましに囁きかける。  ――大丈夫だよ。怖いのも苦しいのも痛いのも、ほんのあっと言う間だよ 本当に?  ――本当だよ。あと少しだけ辛抱さえすれば、やっと楽になれるの。  解放という名の救済を知った途端、少女の胸を蝕んでいた恐怖と絶望が和らいでいく。  でも、私が死んだらこの子も一緒に……。  少女の腕にしっかりと抱き留められた小さなぬくもり――少女を繋ぎ留める最後の砦が、少女の決意を鈍らせる。  刹那でありながらも永遠に等しい、生と死を分かつ一秒の間、少女の心では救済と救出がせめぎ合っていた。  ――……! 君……! こっちへ……来る……んだ……!  少女の呼吸と鼓動が、冥府を目指して刻一刻と霞んでいく最中――少女を呼び叫ぶ声が、少女の耳朶を優しく、けれど少女の胸を激しく震わせた。  私を呼ぶのは誰だろう……?  もしかして……あなた、なの……?  自分を呼ぶ声の主は何者なのか、少女には当然判別もつかない。  それでも、魂に訴えかけるような優しくも力強い響きから、その声の主は希望であり救済となることを、少女は本能的に感じた。  希望と救済の声に応えるように、少女は冷たく濡れた片手へ全ての力を注ぎこむ。  水宙を虚しく漂う少女の手を、大きく力強い手がとっさに掴んだ。  死にかけの少女の手を取った存在は、果たして死の救済だったのか。  それとも――。  ***
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